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2010年06月26日

(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」

私の義父(故)柳川覺治は平成16年6月26日に亡くなりました。
七回忌を迎え、あらためて柳川覺治の人生を振り返り、インターネットという限られた世界ではありますが、記録を残しておきたいと思います。
ありがたいことに、故人の「合同葬」と「一周忌を偲ぶ会」の記録を全国教育懇話会の小沢興朗さん(元柳川秘書)が保存してくださっていたので、それを基につくらせていただきました。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」です。



(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



(故)柳川覺治 一周忌を偲ぶ会 報告書




花に囲まれる 故 柳川覺治の写真
生前故人は「天に星、地に花、人に愛」という言葉をスピーチでよく使った
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



最初に発起人が献花 手前は故柳川覺治夫人
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



代表世話人 井内慶次郎様 ご挨拶
元文部事務次官で故人の上司でもあった。次官時代の秘話をご披露頂き、
在りし日の故人の人柄が偲ばれた。心温まるスピーチを頂いた。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



総合司会はお馴染み 露木茂様
露木氏は故人と同じ稲門会であり、毎年恒例の「教育・学術・文化・スポーツの集い」
新年賀詞交歓会の司会を永年務めて頂き、今回も発起人を引き受け、司会も快諾して頂いた。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



元農林水産大臣 加藤六月様 ご挨拶
故人とは同じ政治家仲間であり、陸軍士官学校予科同期生であった。共に敗戦の衝撃を
乗り越え、その後は志を立て戦後日本の再建を誓い合った。哀惜のご挨拶を頂いた。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



ご来賓の 駐日中華人民共和国公使 李東翔閣下
故人は日中国交正常化後、両国の親善のため、中国登山協会の史先春氏を始め多くの中国政府要人と交流を持った。李東翔閣下からは、その功績や個人的な配慮に対する御礼と、
両国関係の一層の友好親善への抱負が述べられた。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



元 日本私立中学高等学校連合会会長 堀越克明様 ご挨拶
後援団体の長と言うよりは、故人の陸士の大先輩である。「後に続くものを信ず」軍神と呼ばれた同期の最後の言葉を紹介し、今後、日本の未来を担う若者たちに語り伝えるべき
日本の姿を問う懸河の弁であった。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



愛媛県知事 加戸守行様 ご挨拶
文部省の後輩でもある同氏からは、故人の部下時代の楽しかった思い出から人柄まで、
故人の思い出をユーモアとペーソスを織り交ぜて熱誠あふれるご挨拶を頂いた。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



御礼の挨拶をする 大須賀浩裕 調布市議会議員。
隣は 故 柳川覺治夫人 とよ子様。大須賀市議は故人の次女の娘婿。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



大津美子さんには、故人が政界に出馬以来、ずっと「ここに幸あり」を歌ってご支援して
頂いた。この日も定番の「ここに幸あり」を熱唱し、別れを惜しんでくださった。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



閉会の挨拶をする 全国教育懇話会幹事長 清水厚美様
清水先生は「教育・学術・文化・スポーツの集い」新年賀詞交歓会の閉会挨拶を約20年に亘って続けてこられた。偲ぶ会の閉会の挨拶は残念だが、故人の遺志をついで、それぞれの立場で今後の日本の教育の発展に貢献寄与しようと呼びかけた。
いつもの清水節もこの日は些か湿りがちだった。
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」



立礼を頂いた方々
(故)柳川覺治命日ーその2「一周忌を偲ぶ会」





○ 経過報告
本年2月柳川夫人(とよ子)より、一周忌法要 納骨などの事前相談があり、全国教育懇話会としては当初方針通り発起人世話人を構成し 下記「偲ぶ会」方式で開催をお願い柳川家より了解を得る。

日    時  :  平成17年6月24日 午後6時開会
場    所  :  ルポール麹町
案 内 者 数 :  約350人


○ 経   緯
全国教育懇話会 遠山耕平会長と協議し世話人代表を井内慶次郎先生にお願いすることとし、柳川夫人の了承をとり、さらに夫人からの要請を井内先生に快諾していただき決定する。

5月初旬 代表名で発起人受託依頼の結果40名の方々快く了解を得る。(別途名簿記載)

5月中旬 永年、「教育・学術・文化・スポーツの集い 新年賀詞交歓会」などで司会をやって頂いた旧知の露木 茂 元フジテレビ アナウンス部長に依頼 了承を頂く。

5月17日より案内状を数次に亘って発送(返事は6月10日迄)

同時並行で昨年の柳川の葬儀について報告書を作成(約400部) また礼状および、当日の引き出物についても手配。

会場(ルポール麹町)担当者との打合せ、飯岡氏の紹介でルポール麹町に色々配慮を頂くことが出来た。

6月22日発起人への出欠の再確認とご祝辞を頂く先生方への最終確認をする。
加藤六月先生のみ連絡つかず(沖縄へ出張中とのことであった)6月23日に再度連絡する。

○ 事 務 局
全国教育懇話会内に設置  東京都千代田区平河町2―11―2 渡辺ビル6階


○ 事務局構成
故柳川議員元秘書有志
財団法人 学校福祉協会
文部科学省
柳川家
(株) テイハナ
地方公務員共済組合
(学) 第一藍野学院
(株) 総 文 研
(有) 東京学園サービス


○ 案内状発送
約600名 に案内状を発送 375名の方にご出席を頂く

○ 資料作成
先の通夜、密書 合同葬の御礼も考慮の上、記録として残せる資料作成および偲ぶ会の報告書により故人の足跡を語れるものを作成することに決定。

○ 引き出物
   マグネット式 壁時計・熨斗袋セット(故柳川覺治君を偲ぶ会 発起人)
   素麺(柳川家より)
   故柳川覺治葬儀報告書 (故柳川覺治葬儀実行委員会)
   礼 状(代表世話人 井内慶次郎様)


司会進行
   露木 茂(元フジテレビジョン アナウンス部長)
代表世話人 ご挨拶
   井内 慶次郎(元文部事務次官)
来賓ご挨拶
   加藤 六月(元農林水産大臣・衆議院議員)
   李 東翔(駐日中華人民共和国 公使参事官)
   堀越 克明(元日本私立中学高等学校連合会 会長)
御礼のご挨拶
   柳川とよ子(故柳川覺治夫人) 大須賀浩裕(調布市議会議員・故柳川覺治 義息)
献杯のご挨拶
   加戸 守行(愛媛県知事)
献  歌
   大津 美子(元日本歌手協会 副会長)
閉会のご挨拶
   清水 厚実 (財団法人 日本図書教材協会 専務理事 柳川後援会幹事長)




<故柳川覺治君を偲ぶ会発起人>

井内 慶次郎  (日本視聴覚教育協会 会長)
有馬 朗人   (元文部科学大臣)
加藤 六月   (元衆議院議員)
三角 哲生   (二階堂学園 理事長)
加戸 守行   (愛媛県知事)
佐藤 禎一   (日本政府ユネスコ代表部全権大使)
李 東翔    (駐日中国大使館 公使参事官)
遠山 耕平   (全国教育懇話会 会 長)
下山 武士   (全国教育懇話会 副会長)
清水 厚実   (全国教育懇話会 幹事長)
小野 元之   (日本学術振興会 理事長)
御手洗 康   (放送大学学園 監事)
結城 章夫   (文部科学省 事務次官)
玉井 日出夫 (文部科学省 官房長)
上廣 榮治   (実践倫理宏正会 会長)
堀越 克明   (日本私立中学高等学校連合会 常任顧問)
平岡 英信   (清風学園 理事長)
小山 昭夫   (藍野学院 理事長)
岡野 俊一郎 (日本サッカー協会 名誉会長)
野村 万作   (狂言師 無形文化財綜合指定者)
玉利 齊    (日本健康スポーツ連盟 理事長)
赤木 恭平   (全日本ボウリング協会 会長)
鈴木 祐一   (日本グラウンドゴルフ協会 会長)
柏木 健三郎 (元文教施設協会 専務理事)
赤松 憲樹   (前尚美学園 理事長)
高野 文雄   (尚美学園 理事長)
渡辺 誠    (第一藍野学院 理事長)
神山 正    (修紅短期大 学長)
影山 英之   (晴川学舎 理事長)
松尾 泰    (電子開発学園 理事長)
長濱 文子   (全日本なぎなた連盟 会長)
大津 美子   (元日本歌手協会 副会長)
小林 町子   (全国学校栄養士協議会 会長)
佐藤 行雄   (佐藤国際文化育英財団 会長)
秋元 秀夫   (元全国給食物資販売協同組合連合会 会長)
中込 豊秋   (全国給食事業協同組合連合会 会長)
枻川 恵一   (サンマークグループ 会長)
勢能一男   (セノー株式会社 社長)
長野 寛子   (日本伝統文化国際交流協会 会長)
露木 茂    (キャスター・早大客員教授)
       ( 敬称略 順不同 )






開会のごあいさつ

故柳川覺治君を偲ぶ会 代表世話人 井 内  慶 次 郎 様

本日、私共発起人、世話人が「故柳川覚治君を偲ぶ会」を催しましたところ、このように各界からたくさんの方々のお出ましを戴き厚く御礼申しあげます。早いもので明後日6月26日が丁度一周忌であります。承りますとお身内で法要もすまされ町田いずみ淨苑を安眠の地とされたようであります。
 本日は、とよ子夫人をはじめご親族の方々もご一緒に柳川君の一周忌に相応しいくつろいだ語らいをもっていただければ幸せと存します。
 私は柳川覚治君と昭和46年 坂田道太大臣の時に一緒に、官房に入りました。昼間は私が官房長で柳川君が総務課長でありました。
 ところが陽が沈むころになりますとだんだん関係が変化いたします。
 特に宴席ともなると、酒量が私とは全然違いますし、芸能にいたっては柳川君はプロ級でしたから、逆らっても無駄ですから柳川君の言うことをきいておりました。夜は柳川官房長で井内課長であります。
このような席でどうかとも思いますが、あまりお話をしたことのないことをお話し致しまして、柳川君に感謝の気持ちを捧げたいと存じます。と 申しますのは昭和54年度の予算編成の際、内藤文部大臣は虚血性発作で倒れられました。今夜お嬢さんの平井みさをさんが、お見えでございますが、内藤大臣は本当に予算に生きたような方でございましたから、大臣折衝には絶対に出るというわけで、ベッドの上でおきあがってみたり、ネクタイを締めてベッドの周りを回ったりして体調を整えられ、とにかく大臣折衝に臨まれました。ところが放送大学の件は大臣折衝では決着せず、三役折衝となりました。大臣に代わって三役折衝に。緊張そのものでした。なかなか議整わず、暫時休憩、再開後やっと放送大学の予算が認められましたが、その時特殊法人をひとつ減らすということになりました。予算成立の見通しがつくまではどの法人を減らすのかと云うことを確定することは待っていただけるということになりました。次官室に戻って来まして、「終わったな」と思いながらも、これからのことを考え天井を仰いでいました。柳川体育局長が入ってきて「次官、放送大学御苦労さんでした。特殊法人のことがあるようですが、あまりくよくよしないで下さい」。と黙ってお互いに手を握り、それ以上何も立場上言えず、次官室を去って行きました。 
柳川君の深い熱い友情に涙を呑みました。あの夜の柳川君の心情に今改めて深く謝意を表する者であります。
多分彼は、今夜は眠りをさまして、町田の淨苑からこの部屋に来ておるのではないでしょうか。今夕はあの豪快で明るく愉快な柳川君を偲びながら、御一緒にひとときを過ごさせていただければ誠に幸せであります。私的な思い出まで話させていただき恐縮でございましたが、以上をもちまして開会のご挨拶といたします。






来賓 ごあいさつ

元農林水産大臣 加 藤 六 月 様

わたくしは、昨日夜遅く沖縄から帰ってまいりました。
一つは今日柳川さんの偲ぶ会があるからであります。 他にもあったんでありますが・・・昨日沖縄の摩文仁の丘で慰霊祭が行なわれました、小泉総理もご出席いただきました。今露木さんからご紹介がありましたように、柳川さんと私くし、そしてもう一人同じく山形から出ておりました近岡さん・・・終戦時陸軍士官学校予科生徒であったわけであります。そして柳川さんが文部省からいよいよ政界に出るという前夜、夜を徹して話をしたことがあります。
それは昭和20年8月15日われわれ当時18~19歳の青年が立っておった大地が真っ二つに割れて粉微塵になり、立っておることが出来ないような衝撃、衝動、あるいは別な言葉で言いますと、感銘、感激、色々なものが一瞬に襲ってきた訳であります。19歳で全ての人生が終わったと・・・当時われわれは思ったわけであります。その柳川さんが一念発起して、再び学問をして勉強をしてお国のために何らかの足しになりたいと一大決意をして勉強を始めた。
その心境・・・私も、同じく同期の近岡さん三人と夜を徹して話あったことがある訳であります。今年は戦後60年といえば、色々なことが云われております。柳川さんが生きておいて頂いたら恐らく一緒に沖縄に行くことが出来たんではないか?こういう感じを持つ訳であります。去年惜しくも大往生されてしまいました。わたくしは柳川さんが亡くなられた時にしみじみある面では反省したのは、あの最後の補欠での繰り上げ当選という問題があります。柳川さんは、もう身体を壊してしまって、大変えらかったんであります。多くの皆さんにもご相談がありましたが、私にも相談がありました。わたくしは「柳さん、ここ迄来たんだ、最後の奉公を国会議員としてしようよ」と言葉を励ましたことがある・・そのことが逆に、柳川さんの死期を早めたんでは無いかと・・・何故あの時あんなことを言ったのか・・去年柳川さんの死去という報に接したときにしみじみそう思ったわけであります。今日しかしこのように多くの皆さんが、柳川さんを偲んでご出席賜っておることは、恐らく故人も本当にあの世で「ありがとう、ありがとうみなさん、ありがとう」と言っておると思います。
どうぞご遺族の皆さんがたのご多幸を心よりお祈りしながら、わたくしもあちこち脱線しましたが、ご挨拶にさして頂きます。皆さん今日はどうも本当に有難うございました。


追     録

挨拶では触れませんでしたが、柳川さんの参議院議員としての活躍の一端をこの機会にご紹介しておきます。
当時私が自民党の税制調査会長の時でありました。以前と違い赤字国債問題が真剣に俎上にあがり、大蔵省も新たな税収源と補助金助成金の削減を打ち上げざるを得ない時であり、冬の陣を目前にして、私の手元に大蔵原案がとどきました。その中に文教に関して新たな二項目がありました。第一は宗教法人への課税であります・有体にいえば賽銭、お布施への課税であります。第二は私学助成の違憲性論議と私学助成の削減であります。翌日マスコミにはすでにこれを報しられており、私のところへも報道陣はすでに押し寄せてきていました。
その時柳川君から電話がかかつてきて,「会長今晩時間をとつて欲しい」との要求でした。予算に関係した方であればご理解いただけるのですが、この時期の税調は深夜までの連日の作業で寸暇も惜しむ状況でありました。でも柳川君の要求は五分でも十分でもいいからご足労賜りたいというもので、私も已む無く了承することとなり指定された場所は赤坂の柳川君が懇意にしていた料亭でした。私が着いた時にはすでに神社庁の方や私学関係者が来ていました。
柳川君は「日本の風習は賽銭から税金をとらないことだ「第二は私学助成は絶対に譲れない、わが国は二割の国公立と八割の私学に依存している。現状でも私学助成が充分だとは思わない。会長日本の私学教育振興のためにご理解をいただきたい」
私とてわが国の私学教育の重要性は理解しており。とりわけ終戦で全てが終わった我々にしてみれば教育の充実をもって若者に未来を託すのが大義でありロマンでもあった。私は柳川君の心情を充分理解し彼の手を握り力強く無言の握手で返事をした。
後に宗教法の改正論議があった際、往時の件が話題となり、ある議員が自分が党を説得したと語っていたが、あれこそ柳川さんの情熱と使命感の賜物であったことを私が証明します。
やなさん本当にご苦労様でした。
平成17年7月17日
加 藤  六 月






来賓 ごあいさつ

駐日本国中華人民共和国大使館 公使参事官 李  東 翔 様

尊敬する柳川先生の奥様、尊敬する代表世話人の井内慶次郎先生、尊敬するご列席の友人の皆様 今晩は。
 ただ今ご紹介を頂来ました中国大使館教育交流・留学生交流担当公使参事官の李東翔と申します。本日故柳川覚治先生の友人として、また発起人の一人とさせて頂いて、柳川先生を偲ぶ会に出席し、ご挨拶を申し上げる事が出来ましたことを非常に光栄に存じております。
 ここに立ちまして、皆様と共に柳川先生を偲ぶにあたりまして、本当に感無量でございます。柳川先生はご生前に日本の教育の発展のため大きな貢献をなされ、多くの日本の人々に尊敬され、敬愛されて来ました。そして、私たち中国人にとって、いつまでも忘れられないのは、やはり柳川先生が中日両国の教育交流促進のため、特に中日両国大学施設に関する交流の促進のために多大なご尽力を賜わったことです。柳川先生は日本文教施設協会の会長として、自ら中国との文教施設の建設・整備の分野における交流の道を切り開き、10数年にわたり、先頭に立ってこの交流を指導、推進されて来ました。このような交流を通じまして、柳川先生が中国で多くの友人を作られたばかりではなく、また多くの日本人の方を中国に紹介されました。更に私個人にとっても、長い間本当に柳川先生に色々とご指導を賜り、大変お世話になりました。柳川先生の子ども達への優しい心、中日両国の世々代々の友好への情熱、そして如何なる困難に対しても楽観的な姿は今になっても私の日の前に浮かんでおります。
 今日では、中日両国は各分野において盛んに交流が行われています。とりわけ中日教育交流・留学生交流はご在籍の文部関係の大先輩の方々、また現役の方々のご指導・ご配慮の下で非常に順調で、大きな発展を遂げました。国交正常化以来三三年間に中国から日本に来た留学生は既に十三万人に達しました。日本から中国に行った留学生も累計10万人を越えています。これらの留学生たちは、卒業後、それぞれ中国で、或は日本で、各分野において活躍されています。このような留学生交流を通じて、中日両国の相互理解と各領域における交流を大いに促進して来ました。留学生はまさに中日双方の努力によって育てられた人材であり、宝であります。この機会をお借りしまして、中日両国の教育交流・留学生交流の発展に対しご理解、ご支援を賜り、また中国人留学生のためにお世話になりました文部科学省をはじめ日本教育界ならびに各界の友人の皆様に心から感謝の意を表したいと思います。
 皆様がご存知の通り、今中日関係は難しい問題に直面しております。しかしながら柳川先生のようにいつまでも日中友好の信念を固く堅持し、また如何なる困難にあっても楽観的に対処していくという精神を継承さえすれば、中日両国の友好関係は必ず今の困難を乗り越えて、新しいよい場面を迎えられると確信しております。どうか友人の皆様、一緒に頑張りましょう。柳川先生どうぞご安心ください。中日両国の関係は必ず中日両国民の共同努力によって益々発展していきます。
 ご静聴どうもありがとうございました。





来賓 ごあいさつ

日本私立中学高等学校連合会 常任顧問 堀 越 克 明 様

ご紹介を露木さんから頂戴いたしました、堀越克明でございます。実は柳川さんはいろんな団体にご関係でございまして、今日はそれぞれの柳川さんご生前親しくしていらした方が多数おいでいただいておる訳でございますが。わたくしがご指名を頂戴いたしましたのは、柳川さんと、今、露木さんからチョッとお話がございましたが、同窓であると言う事と、その後いろんな立場で柳川さんのお世話になったと云う団体の責任者でございますので、ご指名を頂戴したと思います。大変僭越で失礼でございますが。一言だけ柳川さんの思い出話をしたいと思います。
柳川さんは士官学校の60期でございます。士官学校在学中に、終戦と云うことになった訳でございます。私は、チョッと柳川さんの先輩に当たる訳でございますが、士官学校の52期でございます。私の同期に一人だけ軍神と云われた同級生がございました。あるいはご存知の方もいらっしゃると思いますが・・若林東一と云う男でございます。この人は私どもと違いまして、大変苦学をいたしまして。年をとってから士官学校の受験をしてまいりました。で、私どもがまだ、17、8、9の時代に彼は24~25歳だったんですが、士官学校卒業した時に彼は、いわゆる当時の恩賜組と云われる、天皇陛下から頂戴する恩賜の軍刀を下賜された訳です、すばらしい努力家であり秀才だったんですが。彼は、日本が開戦まもなく香港島の占領をした時に、あの香港島の一番高いところに自ら駆け上って日の丸の旗を掲げたという、勇敢な男で御座いました。
大変優秀な人間だったと私は今でも尊敬をいたしておりますが、その後彼は香港島から南方の方へ転戦を命じられました。そして最後は昭和19年にガダルカナルで、いわば兵隊と一緒に戦死をしたんで御座います。完全に糧道を絶たれまして、食べ物がまったく無いと・・云うような所で、彼の遺書に「後に続く者を信ず」と云う素晴らしい遺書を彼は書いて死んだわけで御座いますが、その時に一番彼が慕われていたのは、赤紙一枚で兵隊に招集されたという、その部下の人たちが「若林中尉の為なら本当にわれわれは全ての命令に従って死ねるんだと、こう言って昭和19年のもう糧道を絶たれ、食べ物が無い、蛇を食べたりイタチを捕ったりと、云うようなそういう食事をしながらガダルカナルで全員玉砕をしたそうで御座いますが。そういうスゴイ男で御座いまして、彼が、今、色々慕われておりますのは、われわれの同期生で軍神と呼ばれたのは彼一人で御座います。私ども52期と云うのは、殆んど戦争で仲間を失いまして、今生き残っているのが、士官学校に入ったときの三分の一しか生きていないというような状況で御座いますが、その若林東一という中尉をわたくしは今柳川さんと共に思い出しているところで御座います。
 もし柳川さんがあのまま戦争が仮に続いていたとすれば、素晴らしい指揮官として頑張ったのではないかと、今から思い出される次第で御座います。
そこで、軍の話ばかりしていて申し訳ありませんが、柳川さんと一緒にこう云う話をしたことがありました。これは戦後のことでございますが、今、靖国問題と云うのが話題になっております。これは私どもも如何かと思われるので御座いますけれども、もっとも日本で今、皆がこんなスゴイ人がお国のために死んだんだなあと、しかもその外地で死んだ人の遺骨の引き取り手が無いと言う遺骨が御座います。これが30数万体、まだ遺骨の引き取り手が御座いません。戦死をした事は分っておるのですが、どなたのどうゆう関係かが分らない・・・というので、その無名戦士の墓とでも言ってよろしいんでしょうが、靖国神社ではなくて、あの近くに千鳥が淵戦没者墓苑というのが御座います。そこに引き取り手の無い外地で死んだ、戦死をした遺骨が三〇数万体、まだ祭られている訳で御座います。そういうことをやはり柳川さんは、これからも若い人たちに、あなたは教育の関係者の一人だからやっぱり伝えていって欲しいなと、忘れられてはいけないのだと、盛んに言っていたのを今でも思い出します。そんなことで、柳川さんはわたくしと同窓であったと言うご縁で来たわけで御座いますが、その後、今お話しが御座いましたように、非常なハンデキャップがあった陸軍の学校を已むを得ず中途退学されて、それから一念発起、勉強をして早稲田大学に入学をされたということで、彼はやはり教育と云うことを通じて日本の将来を考えていたのだと思います。旧文部省に入省をされて、それからはもう皆さんご存知のような活躍をされたわけで御座います。
わたくしども私立学校関係で一番柳川さんにお世話になったのは、管理局長の時に 色々私学助成の問題が、憲法八九条の解釈うんぬんと云うようなことがまだ議論されていた頃で御座いまして、なかなか私立学校は憲法違反では無いかと、助成をすると言うことが、国が出来ないのではないかと、言うようなそういう解釈がまだされていた時期で御座いました。「いや、そんなことは無いのだと、同じ教育と云うことを考えれば、あなた方が苦労してやっている私立学校もやはり国が手を差し伸べて良い教育をし、良いこれからの日本人師弟を養成してもらわなければ困るのだ」と、いうのが彼の持論で御座いました。そういう意味で私どもは私立学校の団体の立場で、柳川さんが文部省に居られるということで、色々とご指導お世話をいただいたわけで御座います。今にして本当に心からお礼を申し上げたいと思います。
今、色んな改革が進められている中で、どうも教育改革も少し怪しげな風が吹いているようで御座いますが、やはり、われわれが今後、本当にまともな日本の国にしなければいけないという、年寄りの責任を感じておりますので、どうぞ皆さんも御一緒にひとつ日本のこれからの民族と云うのは本当の日本的な良い教育をわれわれ年寄りが頑張ってやらなければいけないのだと言うことに、お力をお貸しいただけたら、柳川さんも非常にあの世で喜んでくれるのではないかと、そんな事を考えながら、私は今日の偲ぶ会に出させていただきました。チョッとした思い出で御座いますが、どうぞ今日、柳川さんを偲んでごゆっくりご歓談をお願いできたらあり難いと思います。ご静聴いただき有難う御座いました。






御礼 ごあいさつ
                                                                          
大 須 賀 浩 裕

柳川家を代表いたしまして、一言御礼のご挨拶をさせて頂きます。本日は公私とも大変お忙しいところ、柳川に縁のある沢山の方々にご臨席を賜りまして誠にありがとうございました。そして代表世話人の井内先生を始め、世話人の皆様、この様に立派ですばらしい会を催してくださいまして、誠にありがとうございました。
皆様ご承知の通り、柳川は誰よりも賑やかな事が好きだった人であります。また、先ほど井内先生のご挨拶にもありました様に、誰よりも こよなく、宴席を愛した人でもありました。柳川には、一つの口癖と、一つの モットー があったと考えております。一つの口癖は「お支え」と言う言葉ではなかったかと、私は思っています。柳川は78年間の人生でありましたが、秦野時代、 早稲田大学時代、 文部省時代、 そして参議院時代と、どの時代に於いても すばらしい方々に囲まれて「お支え」頂いた人生ではなかったかと、今 改めて考えます。それぞれの時代を「お支え」頂きましたことに新ためて感謝を申し上げます。ありがとうございました。
そしてもう一つのモットーは、「子供は風の子太陽の子」でございました。本日の会合の冒頭でこのテーマ曲をかけさせて頂きました。
先日一周忌の法要と納骨をさせて頂きました。柳川の墓石には家族が相談をした結果、「子供は風の子太陽の子」の言葉を刻ませて頂きました。今 日本の教育は戦後最大の危機が叫ばれております。連日 報道されます青少年の犯罪、 子供たちの道徳心、公共心、そして 忍耐力の欠如、さらには学校の荒廃 このような事が連日声高に叫ばれております。でもそんな中だからこそ、今こそ「子供は風の子太陽の子」その精神の大切さが改めて問われているのではないでしょうか。皆様とともにこの「子供は風の子太陽の子」の精神がしっかりと見直しをされ、次の時代にも引き継がれる。もし その様なことがあれば 本日柳川の写真を飾らせて頂いておりますが、何よりも柳川が喜ぶのではないでしょうか。その様に私たちは思っております。
最後に本日このようなすばらしい偲ぶ会をお開き頂きまして、また昨年は密葬、告別式そして合同葬と 皆様の「お支え」を賜りましてお開き頂きましたことに改めて感謝を申し上げます。本日ご参会の皆様のご健勝とご多幸そして日本の子供たち、「風の子太陽の子」である子供たちの健やかな成長を願いまして家族を代表しての御礼のご挨拶とさせていただきます。誠にありがとうございました。






献杯 ごあいさつ
                                    
愛媛県知事 加 戸 守 行 様

 御指名をいただきましたので、献杯の発声をさせていただきます。
 思い出が多すぎて語り尽くせません。その中でも、私が体育課長時代に、柳川体育局長にお仕えした二年間は、本当に心に残るすばらしい期間でした。先生は、私がこれまでに出会ったことのないような破天荒な役人で、発想が豊かで行動力があって、いつも、夢を語り、楽しい人生について、御薫陶をいただきました。お金を余りかけなくても、世の中を変えることができるのだと教えられました。
 一つの例は「子供は風の子 太陽の子」に関連いたしますが、今の子どもたちを自然の中で、あるがままの中で遊ばせられる場を作りたいと思われていたことです。それが「グリーンスポーツ構想」でした。これは、原っぱがあり、道があり、川があり、池があり、木登りのできる木がある、そんな環境の中で子どもたちが自由に遊べる場所を全国に確保したいという思いを込めた構想でした。ささやかな予算要求でしたから、大蔵省も認めてくれ、青梅市で第一号のグリーンスポーツ構想が実りました。先生は、発想が豊かでしたから、子どもたちが遊ぶ広場を「わんぱく広場」、通る道を「みちくさの道」と名づけられました。そんなとき、先生と一緒にお酒を飲んでいましたら、「加戸くんもそれくらい歌が歌えるんだったら『子供は風の子 太陽の子』の歌を作れ。」とおっしやいました。職務命令なのかどうかちょっと迷いましたけれども、酒の勢いも借りて作詞をしました。
 でも、これが、後世役に立ちました。実は、六年前、愛媛県知事選挙に出馬した時に、遊説先で、演説は半分の時間で、残り半分の時間は「子供は風の子 太陽の子」の歌を歌ってピーアールし、当選させていただいたのです。正に「情けは人のためならず」を実感した次第であります。
 二つ目は、学校には、運動場や体育館、プールがあるのに、地域社会の人からには、運動する場がないから、学校を開放しようと考えられたことです。そこで、日曜日や平日の放課後、社会人に、地域社会に、学校を開放すべきだということで、学校開放運動を展開しました。予算としては夜間照明の設置程度の話でしたけれども、この取り組みもすばらしい実績を上げました。
 更に、先生は、陸軍士官学校の御出身ということもあったのでしょう。達人であったかどうかは分かりませんが、剣道に取り組んでおられたこともあって、学習指導要領を改訂して、体育の正課に格技として柔道・剣道・相撲の三種類のいずれかの実施を義務付ける改正もなされました。
先生は、アイディアが豊富で、部下としては対応に弱りました。いろいろなアイディアがたくさん出て、そのアドバルーンが山のように上がるのです。私は、上がったアドバルーンの半分以上を、必死になって引っ張り下ろしていましたけれども、考えてみると、こんな人が世の中に二人といたら、きっと時代は変わるのだろうなと思いました。先生からは、本当に多くのことを学び、多くの夢を一緒に語らせていただきました。
 さて、先生は、プライベートの面でも本当に大変な方でした。囲碁、麻雀、カラオケ、ゴルフ、踊り、すべて諸事万端、ある意味では、型破りで、規格外で、日を見張るものがありました。でも、これもまた先生の財産を受け継ぐことができました。先生のお得意の歌は『大利根無情』でしたがご三番日の終わり近くの歌詞に、「冷酒飲めば 鐘が 鐘が鳴る鳴る妙円寺」の「冷酒飲めば」のところで酒をグゥーつと口に含んで、霧をボォーと吹いて、それから「鐘が鳴る鳴る妙円寺」と、続けておられました。私は、これはいけるなと思って、愛媛県知事に当選後、酒席でこれを披露したら、案の定、大変受けました。すばらしい多くの教えをいただきました。こういう人に出会えたこと、しかも充実した二年間を送らせていただいたことを一生忘れません。
 先生は型破りな役人でしたから、政治家が一番向いているなと、それまでにも私は思っていました。私が、体育課長の後、官房総務課長になったとき、柳川先生は管理局長でしたが、当時、さまざまな方々から参議院選挙に出馬しないかというお話があったようです。ある時、「局長、どうするのですか。」と、新宿で飲みながら、私の前任の総務課長の古村さんと二人で先生に聞きました。先生は、「選挙はね、みこしに乗るんだよ、誰かがみこしを担いでくれなきゃ、乗れないよ。」とおっしゃいました。私と吉村さんは、酒の勢いで言いました。「先生以外に誰が政治家をやれますか」と。しかし、そう言う以上は、担がなければならない羽目に陥りましたが、幸い、結果は、成功しました。そのときは大変うれしかったことを覚えています。でも、柳川先生以外に文部省のチヤンピオンとして国政の場で頑張ってもらえる人はいないと思ったからこそ、私は先生を支持させていただきました。
 先生を失ってしまい、本当に残念です。先生に文部大臣になっていただいて、もっともっと多くのアドバルーンを上げていただいて、昔、私が引きずり下ろしたアドバルーンも再度上げて、実現する夢を果たしていただきたかったと思います。
 でも、柳川先生が残された教育文化スポーツを愛するあの気持ちを、私たちが後輩に引き継ぎ、先生の夢と口マンあふれる未来が、後輩たちの手で、いつかは実現されるものと信じております。
 柳川先生の御活躍の陰には、あれだけの自由奔放な活動を支えられたトヨ子夫人のすばらしさがあり、また、政治活動をはじめられて以来、二十数年間ひたむきに黒子となって支えてこられた小沢さんをはじめとした柳川事務所の皆様方の御尽力がありました。ここに、柳川先生に代わって、私からも厚くお礼申し上げたいと思います。
 万感こもごも胸に迫る思いをグラスに託しまして、柳川先生を偲んで献杯したいと思います。御唱和ください。献杯!






閉会のごあいさつ

全国教育懇話会 幹事長 清 水 厚 実 様

皆さん、宴たけなわのところで大変申し訳ありません。柳川先生が「教育・学術・文化・スポーツの集い」をお作りになりまして、19回に亘って毎年、新年賀詞交歓会をやってまいりました。その閉会のご挨拶の係をずっと務めてまいったのが私であります。今日は誠に残念でありますが、先生の偲ぶ会の閉会の挨拶といいますか、中締めの挨拶ということになってしまいました。柳川先生にはもっと長生きしていただいて、新年賀詞交歓会をもっと永くやってもらいたかったなぁーと云う事を今また深く思っているところであります。
去年の確か四月だったかと思いますが調布の病院に先生をお見舞いいたしました。そしたら、先生はご存知のように糖尿病が悪化いたしまして片方の足を切断されておりました。しかし伺ったときに偶々声を出して、「一度ゴルフをやりたいなぁ、またゴルフが出来る様になればいいなぁー」と言うことを言われたのが、わたくしが先生にお目にかかった最後でございました。
先生とは何度かゴルフをご一緒させていただいたことがありますし、ホールインワンも見せていただいたこともありました。先生はホールインワンを確か四~五回やっていると思いますが。「いや黙っていてくれよ、人に言わないでくれよ」と云われまして、あまりホールインワンをやったようなことを人様にお知らせしないようにと云うような、何と言いますか、一面では朗らかではあると共に、色々気を遣った先生でもあります。また三社祭とか、あるいは神田祭とか、ホオズキの市などと云うところにも何遍かご一緒したことがありました。まぁお祭好きだったのですね、そういう意味では・・・
今日皆様方「教育・学術・文化・スポーツの集い」に関わり合いのある、柳川先生にご縁のある皆様方が日本全国からお集まりいただいて、親しく先生の前でこのような偲ぶ会が出来ましたことを、本当に先生は草葉の陰で喜んでいると思います。皆様方「教育・学術・文化・スポーツの集い」を柳川先生に創っていただいて、その皆様がお互いに事業、あるいは人との関係の交流が深まり、また文部省とも深く付き合うことになり、まさに日本の教育を支え発展させるためにそれぞれが頑張ってきたわけで御座います。柳川先生も私どもの活動を見ておられると思いますので、どうかこれからも皆さん一緒になってそれぞれ日本の教育の進歩と発展のために貢献するよう努力されることをお願いいたしまして。柳川覺治先生の偲ぶ会を閉じさせていただきます。どうも有難う御座いました。






述 懐
                                         
 
小澤興朗(元柳川覚治政策秘書)

昭和57年3月、劔木元文部大臣から「すぐ事務所に来るように」と言う電話の一声から私と、柳川先生との23年間が始まった。
その時の劔木先生の話は、「来年の参議院選挙で、文部省から候補を立てるので兎に角当選させろ」と言うものだった。「でも先生、玉にもよりますよ」と抵抗しては見たものの、先生は唯一言「心配するな」とだけおっしゃった。それが柳川覺治だった。劔木先生とは「選挙だけでいいですね、秘書はやりませんよ」と言ったら、「それは文部が誰か付けるだろうから気にするな」であったが、結果的には第一秘書、政策秘書、そして事務所責任者としてそれ以後2期12年、前後11年(3期繰り上げ当選6ヶ月を含む)計23年が過ぎ去り、光陰はまさに矢の如く駆け抜けて行った。
柳川がバッチを外した後半の十年、その間、何度事務所を畳もうと思ったことか、でもその都度その都度、何かが起こり遂に今日まで来てしまった。
ようやく「柳川先生の一周忌を偲ぶ会」も無事終え、先日奥様に私の意を伝えたところ快くご了解をいただいた。先生には誠に申し訳ないが23年間大事に守ってきた柳川覚治事務所の看板は降ろさせてもらう事に致しました。その代わり、先生との約束である「文教の灯」を灯せる場所だけは、「全国教育懇話会」として、いつでも活動できるよう残してあります。
加戸先生始め多くの方々のお陰で「全国教育懇話会」は遠山先生に会長ご就任も頂き、先生の愛した事務所を拠点として、その組織と事務局は温存させて頂きました。
今振り返ってみれば、様々な出来事が走馬灯のように脳裏をよぎるが、先生との幾つかの約束は屡々酷なものであった。
私としては精一杯期待に応えて来たつもりだが、特に次ぎの三つは柳川の意地と云うか信念のようでした、第一は「俺を生み育ててくれたのは文部省であり、その文部省に常にご恩返しのつもりでいてくれ」 第二は「政治の世界だから身に覚えのない中傷やデマがあるが絶対にクリーンであれ、いつかそれは認められる」第三は「組織も全て文教の財産であり柳川のものではない、それを継続することだ、辛抱強く待て、お前だから俺は頼むのだ」と、言われては反論しようもなく今日まで来てしまった。意地には意地で対抗などとつまらない意地であったかもしれない。「あの時選挙だけでやめておけばこんな苦労しなくて済んだのに」と時折思うのだが、正直言って先生と何回も怒鳴りあいをしたが、苦労もまた何時しか楽しい思い出に変わった。意地を張り合うのもまた愉快である。柳川覺治という人はそんな人なのだ。そして私も真から柳川に応えようとしたことも事実である。私が予想もしなかった後半の人生であり、私を知る人からは、全く子供のような別人になったようだと評される。「・・・・・人生意気ニ感ズ、功名復誰カ論ゼン」本当に永い間ありがとうございました.柳川覺治事務所の看板を今静かに降ろさせていただきます。                                               
合  掌

                                                    




<偲ぶ会運営スタッフ一覧>

文部科学省 大臣官房総務課スポーツ・青少年局  7名

学園サービス  藤田・江ヶ崎         2名

総 文 研      小林・平田         2名

健康科学大学  村石(送迎・故柳川夫人)   1名

学校福祉協会  長浜 市川 小佐波 沼      4名

柳川事務所   麻生・志村・新田・富樫・荻原・田岡・羽尾・小野寺・重宗・大澤  10名
            
計        26名






報告書作成に当たって
 
  梅雨が明けて暑さ厳しい日が続きます。皆様にはご清祥にてお過ごしの事と存じます。
さて、この度、「故柳川覺治君を偲ぶ会」を企画、開催しましたところ、非常に大勢の方々にご参集賜り厚く御礼申し上げます。
わたくしも、昭和58年柳川先生が政界に出馬するとき文部省の裏方として応援に心を砕いておりました。柳川覺治候補当選の報を聞いた時には、文部省の代表として、国政において活躍して頂けると嬉しく思った記憶が御座います。時は過ぎ先生が世を去られても、先生の教育・学術・文化・スポーツに対する熱い思いは、わたくしの記憶にしっかりと残っております。
ところで、今回、偲ぶ会を記録として纏め、発起人の皆様へ報告書を作成、提出することに致しました。
柳川先生は生前「語り部」と云う言葉で経験や記憶の伝承の大切さを訴えておられましたが、私も自分の体験からその大切さを実感しております。この報告書が些かでも皆様の参考になれば幸甚に存じます。
梅雨が明けて、これから夏本番です。皆様におかれましてはご健勝にてお過ごしくださいますよう。ご多幸ご発展をお祈り申し上げます。
平成17年文月吉日                                                
全国教育懇話会 会長 遠山耕平



 
        


 
編 集 後 記

「天国へ行つても人を集め語り部をさせた男」・・・ある人がこんなことをつぶやいた、まさに柳川という男は そんな男であった。
また彼が真からそう願っていたのではないだろうか。
敢えてここでは 柳(やな)さんというが 実はこの呼び方が彼にも我々にも一杯ひっかけたような気分になり裃を脱いで気楽になれるのだ。事実彼は先輩だろうが後輩だろうがそう呼ばれるとあの恥ずかしそうな顔でニコニコと笑っていた。
 そんな柳さんが 国会議員のバッチを外しても開催していたのが「教育・学術・文化・スポーツの集い 新年賀詞交歓会」であった。そして新年会の会場は常に何千人という人達で埋まった。時には柳さんや他の文教議員や候補者の出陣決起集会になったりしたが二十回の大半は純粋な賀詞交歓会であった。柳さんがバッチをはずしてからのことであったが 柳さんに率直に「何故あのパーティにこだわるのか」と尋ねたら、彼は珍しく彼らしくも無く、 「皆に迷惑をかけているが」と前置きして箇条書で答えてくれた。
 「第一は文教の力なのだ 今これだけの大勢の集会を開催できる組織はないよ」。
 「第二は語り部の場をつくりたいのだ OB 現役 文教団体 そして関係者が一堂に会する集会って他にあるかい。これから益々難しくなるよ、ここで皆が語り合えば良いのだ、そうすることで先輩から後輩へ歴史が語り継がれる、そして人間関係も出来るのだ」。
 「第三はこれが自分の財産では無く文教の財産であることを継続したいのだ。だから自分としては一度たりとも柳川覚治という言葉は使ってこなかった。文教関係者の財産として、集会も人も継続して欲しいのだ」。
なぜか「お前に託したぞ」と云わんばかりで薮蛇だったなと思った事を記憶している。「柳さん俺でなく今の話し加戸さんに頼めよ」と言ったら「彼も今、愛媛で頑張ってくれているが忙しくてなあ・・・」と最後は寂しそうに声も小さくなってしまった。

そして先日の偲ぶ会、私は久しぶりに清々しさを感じた。柳さんを出汁にして同窓会をしている気分であった。井内代表のご挨拶、来賓のご挨拶、そして加戸知事の献杯・・・・・言葉のどれをとってもまさに柳さんの云う「語り部」であった。こんな場を提供してくれた柳さんと世話人をお引き受けいただき企画していただいた井内先生に、今本当に感謝しています。私にしても始めて耳にしたことも多く、ああ、あの時の事なのかと歴史を遡り暫し感慨に耽りました。
当時、自分も存在していた歴史の裏側の真実やその任の苦しみ等、先輩後輩関係なく語り継がれていくべきではないだろうか。「おい 柳さんあんたのいう語り部って分かったよ」。一夜明けても昨夜の偲ぶ会が頭の中から消えない。何故だろうか、仲間に電話をしてみた。誰もが同じであった。「そうだよ、あのくらいの規模で皆が集まれる集会が必要なのだ」そして柳さんがいう「語り部」が今だからこそ必要なのだ。先輩や後輩、現役やOB、当時の文教関係者の久しぶりの顔、顔、顔であった。誰もが一年に一回こんな機会があってもいいのだと思っている。大先輩であり大恩人である井内先生には誠に申し訳ないのですが、せっかく柳さんが残してくれた良い意味での残債の継続に音頭をとっていただけないだろうか、と厚かましいお願いになってしまう。その中から本当に俺が柳さんの跡を継ぐという後輩が出てきてもよし、またそんな頼もしい後輩が早く現れればきっと柳さんも喜んでくれるものと思う。
柳さんあんたは天国のどこかで、しめしめ、うまく俺のアドバルーンにあの野郎引っかかってくれたとほくそえんでいることだろう。俺も年をとったなぁ同窓会が恋しくなるようでは、でも柳さんありがとう、お陰で楽しかったよ。だからってお前も早く来い、なんていうなよ。

この文章は偲ぶ会、開催後、事務所を訪ねてくれたOBの話を文章に致しました。と言いますのも同じ様な事を、何人かの人が異口同音に語っていたためであります。編集後記として最後に掲載させていただきました。
文責 小澤興朗



(柳川覚治)

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    Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 00:34│Comments(0)その他
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