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2010年06月26日

(故)柳川覺治命日ーその1「合同葬報告書」

私の義父(故)柳川覺治は平成16年6月26日に亡くなったので、今日は6年目の命日です。
6月20日に親族並びに故人と親しかった方にお集まりいただき、町田市の霊園で七回忌法要を行いました。
たくさんの方にご出席賜り、心から感謝申し上げます。

故人は78年間の生涯でした。父親が95歳で亡くなったことから「95歳まで生きる」が口癖だったことからすると、多少短かったかもしれませんが、極めて中身の濃い人生ではなかったかと思います。
大学を卒業し、新聞記者を目指すもかなわず文部省に入省。豪快で型破りな官僚として名を馳せ、私学出身で初の局長に就任。体育局長と管理局長を務めた後、政界に入り、参議院議員を3期務めました。

学校教育に熱心で、「子供は風の子太陽の子」がモットーでした。そのモットーの通り、子供のような純粋なこころを持ち続けた人でもありました。

七回忌を迎え、あらためて柳川覺治の人生を振り返り、インターネットという限られた世界ではありますが、記録を残しておきたいと思います。
ありがたいことに、故人の「合同葬」と「一周忌を偲ぶ会」の記録を全国教育懇話会の小沢興朗さん(元柳川秘書)が保存してくださっていたので、それを基につくらせていただきました。

(故)柳川覺治命日ーその1「合同葬」です。









(故) 柳 川 覺 治 葬 儀 報 告 書


柳 川 覺 治 
享 年 78歳 平成16年6月26日没 糖尿病による急性心不全
法 名 文殊院政道覺禅居士  正四位 勲二等瑞宝章


● 経 歴 別 掲


● 経 緯

症状の変化

平成12年8月自宅にて突然歩行困難を呈す。東京医科歯科大学病院に入院 糖尿病と診断 2ヶ月で退院するも左足、右目に僅かに障害が残る。山梨県石和温泉病院にてリハビリ治療の為転院。約6ヶ月の入院後自宅にて療養に努める。その間本人の希望でフランス パリで行なわれた第2回世界なぎなた選手権大会に会長として車椅子で参加する。さらに帰国後間もなく念願の中国旅行を企画、北京・敦煌・西安・重慶より長江を下り、武漢・上海にいたる旅行を楽しむ等、持ち前の行動力は衰えることは無かった。

翌、平成13年2月繰り上げ当選〔3期目〕。同年7月22日、任期満了にて参議院議員を辞す。

国会閉会後任期満了までの間、中国政府の招聘で再度中国を訪問。議員としての最後の訪中も車椅子であったが意気軒昂で出発。無事任務を果たし帰国。しかしながら公務の緊張から解放された為か、翌日体調を崩し(過労による一時的な衰弱)昭和医大藤が丘病院に入院。約2週間で転院。持病である糖尿病治療専念のため以後3年間病院にて療養生活が続く。その間東大病院入院中の4月、勲二等瑞宝章を受章。数日措かず糖尿病による壊疽のため右足大腿部より切除手術を受ける。その後リハビリ治療の為、板橋の都立老人医療センターに4ヶ月の入院を経て調布病院に転院。
約1年半治療に専念するが薬石効無く急性心不全で永眠する。



● 葬儀までの経過

6月26日(土)
同日午前11時33分、数人の親族・秘書に見取られて柳川覺治他界。
遺族・秘書で故人の関係者に通知するも、土・日の為連絡とれず。いたしがたく猛暑も考慮し 28日(月)を通夜、29日(火)を密葬とし、あらためて故人の関係者と協議のうえ合同葬を行うことに決定。関係者に通告。同時に文科省、参議院、各メディアに連絡。
その後葬儀社と急ぎ葬儀場の選定に入る。予約状況や利便性を考慮し式場を中野宝仙寺に決定。

6月27日(日)
文部科学省各局、遺族、下山武士(柳川後援会会長)、柳川事務所、帝都典礼等関係者による合同会議開催。
通夜、密葬の準備に入る。合同葬を参議院選挙(7月11日投票)を考慮し7月21日(水曜 仏滅)と決定する。会場は式場の規模、交通の利便性、駐車場の有無等を勘案し護国寺に決定。僧侶は柳川家が曹洞宗であることから 鶴見大学の宮本延雄氏に連絡 手配を依頼する。

6月28日(月) 通 夜 (中野 宝仙寺 喪主・柳川トヨ)

6月29日(火) 密 葬 (中野 宝仙寺)

7月 6日(火)
合同葬共催の可否を各団体、学校法人、その他関係者に打診。約70団体の合意を得る。
葬儀委員長人選及び依頼。

7月 7日(水) 
合同葬実行委員会開催。
役員、日程、役割の確認を決定。
葬儀企画では、柳川らしい葬儀とする事で合意。司会、献歌、偲ぶ集い、写真パネルの展示等を検討。さらに、猛暑を考慮し参加者数の正確な予測に努めると共に高齢者の参加を配慮し暑さ対策を特に検討する。

7月 9日(金)
実務者による事務局会議開催。
栞、記念品の企画、及び弔辞依頼について。

7月10日(土)
栞、記念品、発注。
写真の収集開始。

7月20日(日)
最終実行委員会。
駐車場割り振り、総持寺導師との連絡調整、作成物納品、会場作業確認、特に席札添付、盛花状況確認。
勅使待機態勢確認(叙位の為)。平岡葬儀委員長に勅使先導役を依頼。
台本最終調整。遺族謝辞依頼 〔調布市議会議員大須賀浩裕(娘婿)遺族謝辞〕
会場、受付モニター設置決定。遺族の日程確認車手配、偲ぶ集い、軽食確認。


7月21日(月) 
合 同 葬 挙 行 (護国寺 桂昌殿)

式 場  弔問者数
宝仙寺 通 夜  約800人
宝仙寺 密 葬  約500人
護国寺 合同葬  約1,000人

通夜・密葬・合同葬担当寺院
曹洞宗 大本山総持寺

司会進行 露木 茂(元フジテレビアナウンス部長)

弔 辞
平岡 英信 学校法人清風学園理事長
御手洗 康 文部科学事務次官
小山 昭夫 学校法人第一藍野学院理事長

献 歌 (ここに幸あり)
大津美子

日 程
平成16年7月21日(水)
午前 11時〜12時 葬儀 告別式
午後 12時〜13時 故柳川覺治先生を偲ぶ集い

香典お返し
通夜 密葬  緑茶
合 同 葬  バスタオル(子供は風の子太陽の子 名入れ) スポーツタオル(同)

合同葬実行委員会
葬儀委員長  平岡英信(学校法人 清風学園理事長)
実行委員長  下山武士(財団法人 学校福祉協会理事長)
代表幹事   小山昭夫(学校法人 第一藍野学院理事長)





<弔辞及び弔電抜粋>

「 弔 辞 」
 
学校法人清風学園 学校法人清風南海学園 理事長 平 岡 英 信

 柳川覺治先生、自称「善太郎」のご霊前に謹んで哀悼の言葉を捧げます。
 私と貴方とは同世代で、お互いが20代後半の頃からの付き合いであります。貴方が文部省振興課に在職され、産業教育補助金を全国的に交付してその検査に私の学校に来られたのがきっかけでありました。 
 今から40年前の日本の経済は、敗戦により全く衰微し、日本中全体が、これから、さあ立ち上がろうとしていた時でした。
 当時は、公私立を問わず大学にいたるまでその運営は大変でした。その時に貴方は産業設備の検査に来られ、実におおらかに検査をされました。あるものは中古品であるにもかかわらず新品と見て下さる。大いに助かりました。品物も無く各学校とも大変苦労していた時だけに、貴方のおおらかな態度に多くの学校が救われました。
 私はその温かい貴方の姿に接し、この人からもっともっと多くのことを学びたいと思いました。振興課には数年でしたが、そこから転課された後も大いに交流を深めていきました。
 北海道大学の庶務課長になられ、北海道で私学大会が開催された時の話。学長が学会で留守だから学長の車を自由に使いなさいと、道内を案内して下さいました。お互いまだ30代のヤンチャな時です。時を同じくして私学振興会(現在の日本私立学校振興共済事業団)の課長数名が北大に来られ自動車を借りたいとの申し入れに、柳川先生は、大変大切な方が来られているので車は貸せないと断られたのです。その後私が車から降りてきたので、何だ大切な方は平岡だったのかと皆に冷やかされました。
 当時の北大は、学生運動の為にかなり荒れていました。当時全学連の北大委員長であった唐牛健太郎氏が柳川先生に魅力を感じて、先生の所へ遊びに来ていたようです。私を含めて柳川先生のお人柄に多くの人が引き付けられ、多くのファンが集まりました。
 記念物課長の時は、奈良の平城旧跡の土地買収に来られました。地主の方たちとの話し合いが遅々として進まず非常に難航しておられた時、幸いにも私の学校の保護者が一番の大地主だったので、夜、その方の家に二人でお伺いし、土地買収のお手伝いをお願いしました。すると、その方は柳川先生のお人柄に惚れて非常に強力な信奉者となって、土地買収に協力して下さり、人夫の動員まで手配して下さいました。
 体育局長になられ、さらに管理局長になられ、文部省を退官されて、参議院議員に出馬されるとのこと。驚くと同時にさすが先生だなと思いました。
 私が東京に行き、先生の家に泊めていただいたり、先生が大阪に来られて私の家に泊まっていただくこともありました。酔っ払って帰って来た朝、目が覚めると柳川先生が煎餅布団に、私がふかふかの客布団に寝ていたことも度々ありました。その時に「善太郎」、「悪太郎」の名前がついたのです。
 若き頃、大阪の法善寺横町のバーのママさん達と徹夜でマージャンをしました。最初は二人が勝つのですが、その内女性軍が負けてくると暑さを口実にして、だんだんと下着姿になり、それに惑わされ、我々二人はアットという間にチョンボして、負けて帰って来ました。この頃から「わしは善太郎で平岡が悪太郎だ」と言い出されたのです。
 ゴルフも私の方が早く始めました。元大阪府の教育長で文部省審議官をされた濱田成政先生とゴルフを回った時には、柳川先生はまだゴルフを知らないで一緒について回っておられたのですが、いつの間にかハンデ8になっておられました。
 私は貴方から多くのことを教えていただきました。貴方はどんな窮地に陥っても決して弱音をはかれない人でした。いつも夢を追い続けてたえず新しいことに挑戦されていました。  
 人が思いつかないような新しい発想で我々に夢を与えて下さいました。人間的にはとても温かい人でした。権力を振り回さず、人を育成することに力を入れられました。そのお人柄に皆が魅了されたのでしょう。だから貴方は皆の推薦によって参議院議員に出馬されたのだと思います。
 先年、私の弟が大阪府知事選に出馬しました。その時、身銭を切って事務所をあげて応援して下さいました。貴方はそのような人でありました。どの職場に行かれても必ず柳川ファンが現れて貴方をバックアップしました。その様な徳が貴方に具わっていました。
 今、日本の教育は大変なところに来ています。ここ数年で世相が加速度的に悪化し、私達の常識では考えられないような青少年の犯罪や親の子に対する犯罪、親子関係の悪化など、どうしようもないところまで来ています。これを立て直すには、命がけで、また使命感をもってこの問題にあたらなければならないと思います。
 国を愛する心、愛情あふれた親子関係のあり方、人間を超えた崇高なものに対する尊敬と憧れの心等、私は予てより自由の身になられた先生に、これから本当の意味で中心になっていただいて、この日本の青少年の育成にあたっていただけるものと期待し熱望しておりました。
 まず、スポーツの分野から手直しし、世の中のルールを守ることを青少年に教えたい、スポーツを通じて体力の回復を図りたい。
 一方で、知的なものに憧れ、日本文化を深く理解できる知性の具わった教養人、感覚的に又は衝動的に行動するのではなく物事を深く考えることのできる青少年の育成など、これらの諸課題を達成することが日本の将来を明るくすることになると思います。
 今年の八月にはスポーツバトン世界選手権大会が大阪で開催されます。日本はここ十二年連続してアメリカを抜いて優勝を続けております。その名誉会長としてご出席していただき、世界の人々に賞状を渡していただけるものと期待しておりました。世界大会を目前にして元気なっていただけるものと思っておりましただけに残念でなりません。
 どうか天国でおおらかに酒を飲みながら我々を温かく導いて下さい。先生と語り合った教育におけるロマンを私は生きている限り後進に語り続けたいと思います。
 最後にもう一言言わせて下さい。やはり僕が善太郎で貴方が悪太郎です。こんなに早く逝かれる貴方は悪太郎です。                                              
平成16年7月21日





「 弔 辞 」
 
文部科学事務次官 御 手 洗  康

 元文部省管理局長、参議院議員、正四位勲二等瑞宝章柳川覺治先生が去る6月26日ご逝去され、本日こうして、お別れの言葉を述べなければならないことは、誠に哀しみにたえません。
 先生は昭和25年、早稲田大学を卒業後文部省に奉職され、文化庁次長、体育局長、管理局長等を歴任され、32年余の長きにわたり、文部省において文教行政の発展にご尽力されました。
 先生のご功績を振り返りますと、まず、戦後のわが国の教育制度が確立していく時期において、記念物課長、学校給食課長を歴任され、古墳群等を公園として整備し、保存活用して「風土記の丘」整備事業の創設に尽力されるとともに、学校給食発展の基礎を築かれました。
 初等中等教育局審議官時代には、教頭職の法制化後、その定着に尽力されるとともに、「人材確保法」に基づく教員の給与改善を陣頭に立って推進されました。特に、学校における主任制度と手当ての創設に当たっては、日教組等の違法なストライキが全国的に展開される中、そうした反対運動に一切屈することなく毅然とした態度で対応され、調和のとれた学校運営と指導の充実のために尽力されました。また入園を希望する全ての四歳児及び5歳児を就園させることを目標とする「第二次幼稚園教育振興計画」の着実な実施など、初等中等教育の重要施策を推進されました。
 その後、文化庁次長として、国立国際美術館など国立の文化施設の設立準備のほか、「風土記の丘」の整備促進や平城宮跡をはじめとする史跡の用地の買い上げなど、文化財保護の推進をされました。
 昭和52年4月からは4年余りにわたり、体育局長を務められましたが、「子供は風の子太陽の子」をスローガンとして、明日をになう子供たちが自然の中で群れを作って、遊びながら足腰を鍛え、体力を養い、たくましく健やかに成長することを目指して、「子育ての中の基礎体力つくり」に取り組まれました。また、導入されたばかりの米飯給食の推進のため、米飯施設設備の整備や普及啓発に大いに尽力され、我が国の伝統的な食生活と文化の継承という学校給食の教育的意義を確立されました。
 文部省での最後となる管理局長時代は、私立大学、高等学校への入学者の急増を受けて、厳しい財政状況の中で、私立大学等経常経費助成を中心とした私学助成予算の充実や学校法人の経営改善のため尽力されました。また、国立大学や大学共同利用機関の施設整備を推進し、中でも高エネルギー物理学研究所の「第二次加速器計画」いわゆる「トリスタン計画」に係わる施設整備に着手するなど、我が国のビッグプロジェクトの着実な推進に多大な貢献をされました。
 管理局長退任後、先生は、政界に進まれ、昭和58年8月以来、3期12年余にわたり、参議院議員として、我が国の教育・学術・文化・スポーツの充実、発展に大きな役割を果たされました。特に文教委員長として、平成2年の「生涯学習振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」の成立にご尽力をいただいたことは、強く記憶に残るところであります。また、最近では、「子供夢基金」を設置するための法改正にもご尽力をいただきました。
 また、先生は、社団法人文教施設協会の会長を最後まで永年にわたり務められ、文教施設に関する幅広い調査研究や学校施設整備担当者の講習会の開催等により、文教施設の質の向上を図られるとともに、財団法人日本スポーツクラブ協会会長、国際なぎなた連盟会長、財団法人日本プロスポーツ協会副会長等としてご活躍され、我が国のスポーツの振興と国際交流の推進に尽力されました。
 さらに、先生の幅広い見識と卓越した手腕を遺憾なく発揮され、数多くの学校法人運営、大学等発展充実に力を注がれるなど、私学の振興に多大な貢献をさております。
 先生の歩まれた途は、まさに我が国の教育・学術・文化・スポーツの発展そのものであり、生涯、文教行政の発展に尽くされた先生の御功績は不朽のものであります。
 先生の最近のご病状を案じておりました矢先に、にわかに他界されましたことは、我が国の文教関係者にとりまして、かけがえのない損失と申すほかありません。
 先生が、初等中等教育局審議官時代に、若い係長として陣頭にたって精力的に仕事を推し進められるお姿に接し、一方で、毎日のように夜遅くまで豪放で人情味あふれる先生のご薫陶をいただく機会を得ましたことは、公務員としてのその後の人生にとって大変大きな財産となりました。先生の多くの部下、後輩の一人として心から感謝申し上げます。
 ここに深く先生のご逝去を悼み、生前の御功績と御厚情に対し限りない尊敬と感謝の念を捧げ謹んで弔辞といたします。
                                   
平成16年7月21日






<弔電抜粋紹介>


故柳川覺治先生の合同葬にあたり 謹んで哀悼の意を表しあげます 
思い起こせば 文部省御在中は 役人離れした豪放磊落にして,情に厚いお仕事ぶりで こよなく文部省を愛されました そして 参議院議員時代には 教育文化スポーツ界の大御所として 全国からの信望を集められました 
人生のすべてを文教一筋に骨太に生きてこられたその生き様に心からなる尊敬と感謝の念を捧げます 
本日は 県内の主要行事の主催者となっておりますため 大恩ある先生の合同葬に参加できませんことを深くお詫び申し上げますとともに 文部省体育局で先生とコンビを組ませていただいた当時の「子供は風の子太陽の子」の精神は 私の生ある限り しっかりと受け継いで参ります 
柳川覺治先生 どうか安らかにお眠りください 
愛媛県知事 加 戸 守 行




中国からの弔電













経歴〜(故)柳川覺治の歩んだ道〜



























































遺族代表謝辞

大 須 賀 浩 裕

遺族を代表しまして一言ご挨拶をさせていただきます。
学生時代、文部省時代、そして参議院議員時代と、それぞれ柳川とゆかりのあった方々による合同葬をこのように盛大にかつ厳粛に挙行していただきました平岡先生をはじめとする実行委員会の皆様に、まず御礼申し上げます。またご多忙中、さらにはこのような猛暑の中にもかかわりませず、ご会葬いただき、暖かいご弔意を賜りました皆様方に、心から感謝申し上げます。
誰よりも、そして何よりもにぎやかなことが大好きだった父でございます。先日の密葬に引き続きまして本日の合同葬で皆様にお会いでき、さぞかし喜んでいることだと思います。
皆様ご承知のように「こどもは風の子太陽の子」が父のモットーでありました。身内が言うのも変ですが、誰よりも子供の純粋な心を持った人ではなかったかと、今あらためて思います。父は亡くなりましたが、「こどもは風の子太陽の子」の精神はこれからも必ずや次の世代に引き継がれていくことと思っています。
「95歳まで生きる」と言いながら78年間の人生でした。「短かすぎた」と何人かの方におっしゃってもいただきました。しかし、私たち遺族は、ここにいらっしゃる皆様のお蔭で、人を愛し人に愛された柳川覺治の78年間は、95年間にも匹敵する中身の濃い充実したものであったと確信しています。
最後に、本日ここに、人生最後の門出をこんなにたくさんの皆様、父が大好きだった皆様に見送っていただく、まさしく「ここに幸あり」で送っていただくことに、遺族を代表して心から感謝を申し上げ、謝辞とさせていただきます。







故柳川覺治 合同葬 共催団体(順不同)


(財) 学校福祉協会
(財) 国際教育協会
(財) 生弓会
(財) 全日本ボウリング協会
(財)全日本なぎなた連盟
全日本学生なぎなた連盟
国際なぎなた連盟
(財) 日本図書教材協会
(財) 日本プロスポーツ協会
(財) 日本高等学校野球連盟
(財) 日本健康スポーツ連盟
(財) 日本きもの文化協会
(財) 日本スポーツクラブ協会
(財) 日本中学校体育連盟
(財) 日本ユースホステル協会
(財) 日本体育施設協会
(財) 日本余暇文化振興会
(財) 日本ボールルームダンス連盟
(財) スポーツ安全協会
(財) 文教協会
(財) すぎのこ文化振興財団
(財) 佐藤国際文化育英財団
(財) 三徳庵
(財) 学校給食研究改善協会
全国学校給食会連合会
全国給食事業協同組合連合会
日本給食品連合会
学校給食用食品メーカー協会
全日本学生庭球同好会連盟
(独) 日本スポーツ振興センター
(社) 秋田犬協会
(社) 学校給食物資開発流通研究協会
(社) 実践倫理宏正会
(社) 全国学校栄養士協議会
(社) 全日本ピアノ指導者協会
(社) 全国日本学士会
(社) 全日本煎茶道連盟
(社) 日本私立学校給食協会
(社) 日本武術太極拳連盟
(社) 日本七宝作家協会
(社) 日本職業スキー教師協会
(社) 日本ネイチャーゲーム協会
(社) 日本一輪車協会
(社) 日本教育工学振興会
(社) 日本皐月協会
(社) 日本スポーツ用品工業協会
(社) 日本ボディービル連盟
(社) 日本グラウンドゴルフ協会
(社) 現代舞踊協会
(社) 文教施設協会
(社) 日本パワーリフティング協会
全日本高等学校パワーリフティング連盟
全日本実業団少林寺拳法連盟
沖縄を偲ぶ会
日本管打・吹奏楽学会
邦楽研究会
全国文教協議会
日本伝統文化国際交流協会
日本スポーツバトン協会
全国家庭婦人バレーボール連盟

私学関係
全私学連合
(学) 帝京平成大学
(学) 帝京科学大学
(学) 帝京大学
(学) 尚美学園
(学) 電子開発学園
(学) 日本体育大学
(学) 二階堂学園
(学) 第一藍野学院
(学) 藍野学院
(学) 晴川学舎
(学) 青森山田学園
(学) 清風学園
(学) 浄土宗教育資団
(学) 片柳学園
 
陸士60期生会
(株) 文教弘済センター
(株) 官庁通信社
 
文部省虎ノ門会
全国教育懇話会
柳川覺治事務所

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    Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 00:14 │その他