2013年07月21日
7/21② 釜石の「奇跡と悲劇」
宮古市「田老の防潮堤」(7/21①ブログ)から「釜石の奇跡」の釜石東中学校に移動中です。
沿岸の市街地は防潮堤で仕切られています。右写真、遠方に見えるのが宮古市役所。
その防潮堤の壁に遮られ、津波の前兆の「引き潮」や襲ってくる津波に気が付かなかった被災者も少なくないと言われています。
引き潮で川底があらわになった閉伊川(宮古市役所から撮影、岩手朝日テレビ「東日本大震災岩手の記録DVD」より)。
津波が押し寄せているのに気がつかず、自転車で通りかかる男性(宮古市役所から撮影、岩手朝日テレビ「東日本大震災岩手の記録DVD」より)
移動中。釜石市のがれき置き場。
18時10分 釜石市鵜住居(うのすまい)町に着きました。
東日本大震災の津波による死者・行方不明者が1,040人を数えた釜石市で、小中学生の犠牲者は、当時学校にいなかった5人だけでした。
小中学生2,921人が津波から逃れることができ、99.8%の生存率は「釜石の奇跡」と言われています。
学校の管理下にあった児童生徒に限らず、下校していた子どもも、多くが自分で判断して高台に避難しました。
子どもたちの命を救った背景には、「津波てんでんこ」(Wikipedia)の思想がありました。
「津波てんでんこ」とは、明治三陸地震(1896年、明治29年)や昭和三陸地震(1933年、昭和8年)など度重なる地震による津波で大きな被害を受けた三陸地方沿岸部特有の思想です。
「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」と聞くと薄情な気がしますが、家族を助けようとして一家全滅した事例が多かったことから生まれた、一人でも子孫を残そうと言う究極の教訓です。
こうした土壌を生かして釜石市の小中学校で徹底して行われていたのが「津波防災教育」でした。
釜石市の津波防災教育は、どのようにして始まったのでしょうか。
群馬大学大学院の片田敏孝教授は2003年に三陸地方の住民の防災意識を調査した時、「危うさ」を感じました。
住民は、津波警報が発令されても「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、いつの間にか、「津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」「堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていたのです。
片田教授は、三陸地方の自治体に、共に防災教育に取り組むことを打診しました。
手を挙げたのが、釜石市でした。
ここ最近、津波警報が発令されても市民の避難は低調で、釜石市は危機感を強めてたからです。
片田教授は、まずは社会人教育を行おうと、講演会を何度か開催しましたが、来場するのは一部の市民ばかりでした。
そこで、糸口にしたのが学校教育。
防災教育を受けた小中学生は、いつか成人となり、家庭を持ち、結果的に社会全体の底上げにつながるからです。
当初は、小学校を訪ね、防災教育の実施を提案しても、反応は冷ややかでした。
そこで、防災教育の必要性を理解している教育長に相談したところ、平日の午後、全校を休校扱いにして、空いた時間帯に教諭向けの防災講演会を実施する機会を与えてくれました。
その時、片田教授は「防災意識が不十分な今の釜石に育つ子どもたちは、今のままでは次に襲来する津波から逃れられない。そして、その津波は彼等の一生のうちにほぼ必ず襲来する」と訴えました。
自分の命を守ることが何にも増して重要なことと感じ取ってくれた多くの教員が、教授の呼びかけに応じ、2006年、「津波防災教育」が始まったのです。(参照:WEDGE Infinity「小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない」)
「津波防災教育」については、「片田敏孝先生のいのちを守る特別授業」(NHK)をご覧下さい。
鵜住居にある釜石東中学校と鵜住居小学校の子どもたちはどのように津波から逃げたのでしょうか。
津波が去ったあとの釜石東中学校(内閣府「東日本大震災から学ぶ」より)
鵜住居小学校(「釜石・大槌3/20の現場写真」より)
一緒に避難する釜石東中学校生徒と鵜住居小学校の児童たち(内閣府「東日本大震災から学ぶ」より)
地震が発生したとき、釜石東中、鵜住居小とも下校直前のホームルームやクラブ活動を始めていた。
釜石東中は、校長が公務で外出、村上副校長は職員室にいた。
「揺れの大きさで津波が来ると思い、放送で避難を指示しようとしたが、停電で使用できなかった」という。
村上副校長が校庭をみると地割れがあり、声をかけようとしたが、すでにサッカー部員は「津波が来るぞ」と叫んで走り出していた。
ほかの生徒も校庭に集まり始め、教員の指示で、先発の避難者に続いた。
午後3時、隣の鵜住居小では児童らは最上階の3階など校舎内の避難行動にとどまっていた。
同小も校長が不在だったが、中学生の避難をみた教員の指示で、小学生も避難を始めた。
群馬大学大学院の片田敏孝教授は「率先避難者となること。その行動が、避難が避難を呼ぶことにつながる」と話す。
15分後、児童・生徒とも第1避難場所の福祉施設(グループホーム)にたどり着き、全員無事を確認した。
ハザードマップで浸水想定区域外だったため、村上副校長は「避難所までは津波は来ないと思っていた」という。
ところが、グループホームの裏山が崩れているのをみて、児童・生徒が「余震が危ない」と騒ぎ出したため、万全を期し、さらに後方の介護事業所を目指すことになった。
第1の避難場所では、泣き出す中学生もいたが、「あなた方がしっかりしないとだめ」としかった。
気を取り直した中学生は小学生や途中で合流した保育園児の手を引き、再び駆け出した。
第2の避難場所である介護事業所に移動し始めたとき、最後尾にいた村上副校長は、ふと背後に異様な雰囲気を感じた。
ドーン、ドーンと耳にしたことのない爆音が響き、小中学校の方向から、住居が津波に巻き込まれ、追いかけてくる。
「このまま足を止めては死ぬと思った」瞬間、村上副校長は力を振り絞って、「逃げなさい!」と叫んだ。
児童・生徒らは猛然と走り出し、目指していた介護事業所からさらに石材店に向かった。
津波は介護事業所の土台をなめ、ようやく勢いを止めた。
グループホームは1階が水没したが、小中学生がさらに避難したのをみて、職員が入所していた高齢者数人を1階から3階に引き上げ全員助かったという。(参照:産経新聞「奇跡はいかに起きたか 釜石の防災教育(2)」)
(中日新聞)
一方、釜石東中学校から600mほど離れた鵜住居地区防災センターには悲劇が襲っていました。
津波を知らせるサイレンが地域に鳴り響くと、鵜住居地区防災センターには周辺の住民らが避難し始めた。
震災の8日前、市職員も参加した津波避難訓練で防災センターは避難場所に使われた。
海側の窓ガラスは突き破られ、2階の天井近くまで黒波が襲った。
カーテンにしがみつき、顔だけを突き上げて助かった人らが26人。
建物内部で63人が遺体で見つかり、今も全体の犠牲者は分からない。
鵜住居地区の津波避難場所は本来、500メートル離れた寺や神社の裏山だった。
3年前に防災センターが開設すると、「避難訓練の参加率を上げたい」という住民の要望で、市は住宅地に近いセンターを仮の避難場所に設定した。
1,047人が犠牲となった釜石市。
鵜住居地区の住民がその55%を占める。
野田武則市長は「本来の避難場所ではないと強く周知すべき市の責任があった」と繰り返し陳謝している。(参照:中日新聞「釜石、生死分けた津波避難 明暗(上)」)
遺族連絡会によると、鵜住居地区防災センターでは、少なくとも244人が避難し、210人が犠牲となりました(毎日新聞)。
(静岡新聞社)
市の防災計画では、津波が予想される場合は高台などの1次避難場所へ逃げ、その後に被災者が中長期的に生活する拠点避難所に移ることになっています。
鵜住居地区では、市が高台の常楽寺など4か所を1次避難場所に指定していました。
どうして住民は、避難すべき「1次避難場所」ではなく、生活する「拠点避難所」だった鵜住居地区防災センターに避難してしまったのでしょうか。
その理由は次に明らかです。
鵜住居地区防災センターで多数の犠牲者が発生したことについて
〔経 過〕
①鵜住居地区の公共施設である「生活改善センター、出張所、消防屯所」の老朽化に伴い、地域住民から複合施設として再整備するよう長年の要望があった。
②また、複合施設の整備にあたり、消防署出張所を設置するよう地域住民から強い要請があった。
③市では、複合施設として整備し、その施設の名称を「鵜住居地区防災センター」に決定、平成22年1月29日竣工、2月1日に開所式を行った。
④それまでの鵜住居地区の津波避難訓練は、鵜住神社境内、常楽寺裏山を津波一次避難場所として実施してきた。
⑤その当時の津波避難訓練の課題として、避難者数の少ないことがあったが、その要因の一つとして津波一次避難場所である鵜住神社境内、常楽寺裏山が遠い距離にあった。
⑥近年、三陸沖地震による大津波の発生の確率が高まっている状況下、市や自主防災会では、避難者数を上げることが喫緊の課題と認識していた。
⑦鵜住居地区防災センターの改築を機に、自主防災会から、住民の避難行動を促し避難者数を高めるため、鵜住居地区防災センターを仮の津波一次避難場所として津波避難訓練を実施したいとの要請があった。
⑧市は、自主防災会と協議し、実際の津波の場合は決められた「津波一次避難場所」に避難することを条件に、鵜住居地区防災センターを「仮の津波一次避難場所」として津波避難訓練を実施することを了承した。
⑨鵜住居地区防災センターは2月1日に開所したが、その月の28日、チリで発生した地震による大津波警報が発表された際、防災センターに34人の住民が避難した。
⑩また、平成22年5月23日の釜石市津波避難訓練では、68人の住民が防災センターに避難し、津波避難訓練に参加した。
⑪更に、東日本大震災が発生する約一週間前の平成23年3月3日の釜石市津波避難訓練において、101人の住民が防災センターに避難し、津波避難訓練に参加した。
⑫東日本大震災により、100名以上の多くの住民が鵜住居地区防災センターに避難することとなり、大津波の犠牲となった。
(「鵜住居地区防災センターに関する検証と対策について(釜石市災害対策本部)」より)
避難訓練に一人でも多く参加してもらいたい市と自主防災会は、高台に避難するのではなく、高台にない鵜住居地区防災センターに避難すればいい訓練を選んでしまいました。
地震発生後、住民は、訓練通り、防災センターに避難してしまったのです。
震災後「避難場所は防災センターだと思っていた」と答えている住民が少なくありません。
私たちは、亡くなった方々のためにも、これらのことから学べる教訓を決して忘れてはいけないと思います。
動画:テレビ朝日「釜石市 鵜住居地区の津波被害」(YouTube)
釜石東中学校、鵜住居小学校、鵜住居地区防災センターを探しましたが、見つかりません。
学校の校舎は既に取り壊されています。
携帯で「釜石東中学校」を調べると、現在の仮設校舎を示し、「鵜住居地区防災センター」は検索されません。
鵜住居地区に建物はほとんど残っていませんが、釜石消防署鵜住居出張所の建物がぽつんと残っていました。
釜石市消防団第六分団本部が併設されていました。
纏(まとい)と操法競技会の賞状。
分団旗、防火ヘルメット、はんてん。分団員の安否が気になります。
・「大丈夫の思い込みが生死を分けた」釜石市消防団本部 鈴木堅一分団長、「高いところにいろ、せっかく助かった命だ」第6分団 佐々幸雄副分団長〜「消防団の闘い」(日本消防協会)〜
暗くなってきたので探すのを諦めます。
これから釜石市中心部に行って宿を探します。
帰宅してから、鵜住居地区防災センターは釜石消防署鵜住居出張所との複合施設であることがわかりました。
写真を確認すると、防災センターが写っていました。
鵜住居地区の信号。
カーナビはお店やコンビニを示していますが、目の前には1軒もありません。
釜石市の中心部に入りました。
観光案内所が見当たらないので、市役所に。
実は、市議会の視察で釜石市役所に来たことがあります。
確か、15~16年前、ゴミ処理場の視察だったと思います。
釜石市はそれ以来。
高台にある市役所ぎりぎりまで津波が来ていました。
職員の方がサンルームとベイシティホテルの2つが近くにあると親切に教えてくれました。
チェーン店より地元資本らしいベイシティーホテルに駆け込みで入ったところ、シングルが1部屋取れました。
急いでシャワーを浴びると、時間はちょうど20時。
テレビの選挙速報を見ると・・・
参議院選挙で自民公明が過半数を獲得し、東京選挙区の丸川珠代さんが当選確実
やったー
これからの自民党は「ねじれ」を理由にすることができません。
被災地のために、国民のために、本気で取り組んでいかなきゃいかんぜよ
ホテルで薦められた「誰そ彼」(たそがれ)へ。
「冷凍ものは使わない」という自慢のお刺身
釜石にも超うまい酒「浜千鳥」がありました
店主の柏崎久雄さんにお話を伺います。
柏崎さんは『暮六つ』という居酒屋を営んでいました。
しかし、津波で店も道具も流されしまいました。
失意に沈み、再開をあきらめかけていたところ、約5メートルもある自慢のカウンターの一枚板が見つかります。
その板を自衛隊員が総出で持ってきてくれたそうです。
折れていた心が奮い立ちました。
「よし、もう一度がんばろう!」
「暗い町の中に灯りをともし、賑わいを取り戻すことが、釜石の復興になるんだ!」という強い信念で、屋号を「誰そ彼」に改め、店を再開。
最初は電気がなくて、明かりはロウソクだけだったそうです。
柏崎さんの宝物「カウンターの一枚板」
意気投合 かんぱ〜い
シメもこの豪華さ
柏崎さんのような熱い人がいるから、町は着実に復興していくんだと思います。
だからこそ、私たちは柏崎さんのような人を応援し続けていきましょう
帰り際、柏崎さんがDVD「なつかしの釜石」を渡してくれました。
帰宅してからDVDを見てみると、作成されたのは平成8年。
破壊されてしまった釜石の懐かしい姿がそこにありました。
DVDの最後にメッセージが・・・
沿岸の市街地は防潮堤で仕切られています。右写真、遠方に見えるのが宮古市役所。
その防潮堤の壁に遮られ、津波の前兆の「引き潮」や襲ってくる津波に気が付かなかった被災者も少なくないと言われています。
引き潮で川底があらわになった閉伊川(宮古市役所から撮影、岩手朝日テレビ「東日本大震災岩手の記録DVD」より)。
津波が押し寄せているのに気がつかず、自転車で通りかかる男性(宮古市役所から撮影、岩手朝日テレビ「東日本大震災岩手の記録DVD」より)
移動中。釜石市のがれき置き場。
18時10分 釜石市鵜住居(うのすまい)町に着きました。
東日本大震災の津波による死者・行方不明者が1,040人を数えた釜石市で、小中学生の犠牲者は、当時学校にいなかった5人だけでした。
小中学生2,921人が津波から逃れることができ、99.8%の生存率は「釜石の奇跡」と言われています。
学校の管理下にあった児童生徒に限らず、下校していた子どもも、多くが自分で判断して高台に避難しました。
子どもたちの命を救った背景には、「津波てんでんこ」(Wikipedia)の思想がありました。
「津波てんでんこ」とは、明治三陸地震(1896年、明治29年)や昭和三陸地震(1933年、昭和8年)など度重なる地震による津波で大きな被害を受けた三陸地方沿岸部特有の思想です。
「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」と聞くと薄情な気がしますが、家族を助けようとして一家全滅した事例が多かったことから生まれた、一人でも子孫を残そうと言う究極の教訓です。
こうした土壌を生かして釜石市の小中学校で徹底して行われていたのが「津波防災教育」でした。
釜石市の津波防災教育は、どのようにして始まったのでしょうか。
群馬大学大学院の片田敏孝教授は2003年に三陸地方の住民の防災意識を調査した時、「危うさ」を感じました。
住民は、津波警報が発令されても「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、いつの間にか、「津波が来たときには、指示された避難所に行けばよい」「堤防があるから大丈夫」という油断が生まれていたのです。
片田教授は、三陸地方の自治体に、共に防災教育に取り組むことを打診しました。
手を挙げたのが、釜石市でした。
ここ最近、津波警報が発令されても市民の避難は低調で、釜石市は危機感を強めてたからです。
片田教授は、まずは社会人教育を行おうと、講演会を何度か開催しましたが、来場するのは一部の市民ばかりでした。
そこで、糸口にしたのが学校教育。
防災教育を受けた小中学生は、いつか成人となり、家庭を持ち、結果的に社会全体の底上げにつながるからです。
当初は、小学校を訪ね、防災教育の実施を提案しても、反応は冷ややかでした。
そこで、防災教育の必要性を理解している教育長に相談したところ、平日の午後、全校を休校扱いにして、空いた時間帯に教諭向けの防災講演会を実施する機会を与えてくれました。
その時、片田教授は「防災意識が不十分な今の釜石に育つ子どもたちは、今のままでは次に襲来する津波から逃れられない。そして、その津波は彼等の一生のうちにほぼ必ず襲来する」と訴えました。
自分の命を守ることが何にも増して重要なことと感じ取ってくれた多くの教員が、教授の呼びかけに応じ、2006年、「津波防災教育」が始まったのです。(参照:WEDGE Infinity「小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない」)
「津波防災教育」については、「片田敏孝先生のいのちを守る特別授業」(NHK)をご覧下さい。
鵜住居にある釜石東中学校と鵜住居小学校の子どもたちはどのように津波から逃げたのでしょうか。
津波が去ったあとの釜石東中学校(内閣府「東日本大震災から学ぶ」より)
鵜住居小学校(「釜石・大槌3/20の現場写真」より)
一緒に避難する釜石東中学校生徒と鵜住居小学校の児童たち(内閣府「東日本大震災から学ぶ」より)
地震が発生したとき、釜石東中、鵜住居小とも下校直前のホームルームやクラブ活動を始めていた。
釜石東中は、校長が公務で外出、村上副校長は職員室にいた。
「揺れの大きさで津波が来ると思い、放送で避難を指示しようとしたが、停電で使用できなかった」という。
村上副校長が校庭をみると地割れがあり、声をかけようとしたが、すでにサッカー部員は「津波が来るぞ」と叫んで走り出していた。
ほかの生徒も校庭に集まり始め、教員の指示で、先発の避難者に続いた。
午後3時、隣の鵜住居小では児童らは最上階の3階など校舎内の避難行動にとどまっていた。
同小も校長が不在だったが、中学生の避難をみた教員の指示で、小学生も避難を始めた。
群馬大学大学院の片田敏孝教授は「率先避難者となること。その行動が、避難が避難を呼ぶことにつながる」と話す。
15分後、児童・生徒とも第1避難場所の福祉施設(グループホーム)にたどり着き、全員無事を確認した。
ハザードマップで浸水想定区域外だったため、村上副校長は「避難所までは津波は来ないと思っていた」という。
ところが、グループホームの裏山が崩れているのをみて、児童・生徒が「余震が危ない」と騒ぎ出したため、万全を期し、さらに後方の介護事業所を目指すことになった。
第1の避難場所では、泣き出す中学生もいたが、「あなた方がしっかりしないとだめ」としかった。
気を取り直した中学生は小学生や途中で合流した保育園児の手を引き、再び駆け出した。
第2の避難場所である介護事業所に移動し始めたとき、最後尾にいた村上副校長は、ふと背後に異様な雰囲気を感じた。
ドーン、ドーンと耳にしたことのない爆音が響き、小中学校の方向から、住居が津波に巻き込まれ、追いかけてくる。
「このまま足を止めては死ぬと思った」瞬間、村上副校長は力を振り絞って、「逃げなさい!」と叫んだ。
児童・生徒らは猛然と走り出し、目指していた介護事業所からさらに石材店に向かった。
津波は介護事業所の土台をなめ、ようやく勢いを止めた。
グループホームは1階が水没したが、小中学生がさらに避難したのをみて、職員が入所していた高齢者数人を1階から3階に引き上げ全員助かったという。(参照:産経新聞「奇跡はいかに起きたか 釜石の防災教育(2)」)
(中日新聞)
一方、釜石東中学校から600mほど離れた鵜住居地区防災センターには悲劇が襲っていました。
津波を知らせるサイレンが地域に鳴り響くと、鵜住居地区防災センターには周辺の住民らが避難し始めた。
震災の8日前、市職員も参加した津波避難訓練で防災センターは避難場所に使われた。
海側の窓ガラスは突き破られ、2階の天井近くまで黒波が襲った。
カーテンにしがみつき、顔だけを突き上げて助かった人らが26人。
建物内部で63人が遺体で見つかり、今も全体の犠牲者は分からない。
鵜住居地区の津波避難場所は本来、500メートル離れた寺や神社の裏山だった。
3年前に防災センターが開設すると、「避難訓練の参加率を上げたい」という住民の要望で、市は住宅地に近いセンターを仮の避難場所に設定した。
1,047人が犠牲となった釜石市。
鵜住居地区の住民がその55%を占める。
野田武則市長は「本来の避難場所ではないと強く周知すべき市の責任があった」と繰り返し陳謝している。(参照:中日新聞「釜石、生死分けた津波避難 明暗(上)」)
遺族連絡会によると、鵜住居地区防災センターでは、少なくとも244人が避難し、210人が犠牲となりました(毎日新聞)。
(静岡新聞社)
市の防災計画では、津波が予想される場合は高台などの1次避難場所へ逃げ、その後に被災者が中長期的に生活する拠点避難所に移ることになっています。
鵜住居地区では、市が高台の常楽寺など4か所を1次避難場所に指定していました。
どうして住民は、避難すべき「1次避難場所」ではなく、生活する「拠点避難所」だった鵜住居地区防災センターに避難してしまったのでしょうか。
その理由は次に明らかです。
鵜住居地区防災センターで多数の犠牲者が発生したことについて
〔経 過〕
①鵜住居地区の公共施設である「生活改善センター、出張所、消防屯所」の老朽化に伴い、地域住民から複合施設として再整備するよう長年の要望があった。
②また、複合施設の整備にあたり、消防署出張所を設置するよう地域住民から強い要請があった。
③市では、複合施設として整備し、その施設の名称を「鵜住居地区防災センター」に決定、平成22年1月29日竣工、2月1日に開所式を行った。
④それまでの鵜住居地区の津波避難訓練は、鵜住神社境内、常楽寺裏山を津波一次避難場所として実施してきた。
⑤その当時の津波避難訓練の課題として、避難者数の少ないことがあったが、その要因の一つとして津波一次避難場所である鵜住神社境内、常楽寺裏山が遠い距離にあった。
⑥近年、三陸沖地震による大津波の発生の確率が高まっている状況下、市や自主防災会では、避難者数を上げることが喫緊の課題と認識していた。
⑦鵜住居地区防災センターの改築を機に、自主防災会から、住民の避難行動を促し避難者数を高めるため、鵜住居地区防災センターを仮の津波一次避難場所として津波避難訓練を実施したいとの要請があった。
⑧市は、自主防災会と協議し、実際の津波の場合は決められた「津波一次避難場所」に避難することを条件に、鵜住居地区防災センターを「仮の津波一次避難場所」として津波避難訓練を実施することを了承した。
⑨鵜住居地区防災センターは2月1日に開所したが、その月の28日、チリで発生した地震による大津波警報が発表された際、防災センターに34人の住民が避難した。
⑩また、平成22年5月23日の釜石市津波避難訓練では、68人の住民が防災センターに避難し、津波避難訓練に参加した。
⑪更に、東日本大震災が発生する約一週間前の平成23年3月3日の釜石市津波避難訓練において、101人の住民が防災センターに避難し、津波避難訓練に参加した。
⑫東日本大震災により、100名以上の多くの住民が鵜住居地区防災センターに避難することとなり、大津波の犠牲となった。
(「鵜住居地区防災センターに関する検証と対策について(釜石市災害対策本部)」より)
避難訓練に一人でも多く参加してもらいたい市と自主防災会は、高台に避難するのではなく、高台にない鵜住居地区防災センターに避難すればいい訓練を選んでしまいました。
地震発生後、住民は、訓練通り、防災センターに避難してしまったのです。
震災後「避難場所は防災センターだと思っていた」と答えている住民が少なくありません。
私たちは、亡くなった方々のためにも、これらのことから学べる教訓を決して忘れてはいけないと思います。
動画:テレビ朝日「釜石市 鵜住居地区の津波被害」(YouTube)
釜石東中学校、鵜住居小学校、鵜住居地区防災センターを探しましたが、見つかりません。
学校の校舎は既に取り壊されています。
携帯で「釜石東中学校」を調べると、現在の仮設校舎を示し、「鵜住居地区防災センター」は検索されません。
鵜住居地区に建物はほとんど残っていませんが、釜石消防署鵜住居出張所の建物がぽつんと残っていました。
釜石市消防団第六分団本部が併設されていました。
纏(まとい)と操法競技会の賞状。
分団旗、防火ヘルメット、はんてん。分団員の安否が気になります。
・「大丈夫の思い込みが生死を分けた」釜石市消防団本部 鈴木堅一分団長、「高いところにいろ、せっかく助かった命だ」第6分団 佐々幸雄副分団長〜「消防団の闘い」(日本消防協会)〜
暗くなってきたので探すのを諦めます。
これから釜石市中心部に行って宿を探します。
帰宅してから、鵜住居地区防災センターは釜石消防署鵜住居出張所との複合施設であることがわかりました。
写真を確認すると、防災センターが写っていました。
鵜住居地区の信号。
カーナビはお店やコンビニを示していますが、目の前には1軒もありません。
釜石市の中心部に入りました。
観光案内所が見当たらないので、市役所に。
実は、市議会の視察で釜石市役所に来たことがあります。
確か、15~16年前、ゴミ処理場の視察だったと思います。
釜石市はそれ以来。
高台にある市役所ぎりぎりまで津波が来ていました。
職員の方がサンルームとベイシティホテルの2つが近くにあると親切に教えてくれました。
チェーン店より地元資本らしいベイシティーホテルに駆け込みで入ったところ、シングルが1部屋取れました。
急いでシャワーを浴びると、時間はちょうど20時。
テレビの選挙速報を見ると・・・
参議院選挙で自民公明が過半数を獲得し、東京選挙区の丸川珠代さんが当選確実
やったー
これからの自民党は「ねじれ」を理由にすることができません。
被災地のために、国民のために、本気で取り組んでいかなきゃいかんぜよ
ホテルで薦められた「誰そ彼」(たそがれ)へ。
「冷凍ものは使わない」という自慢のお刺身
釜石にも超うまい酒「浜千鳥」がありました
店主の柏崎久雄さんにお話を伺います。
柏崎さんは『暮六つ』という居酒屋を営んでいました。
しかし、津波で店も道具も流されしまいました。
失意に沈み、再開をあきらめかけていたところ、約5メートルもある自慢のカウンターの一枚板が見つかります。
その板を自衛隊員が総出で持ってきてくれたそうです。
折れていた心が奮い立ちました。
「よし、もう一度がんばろう!」
「暗い町の中に灯りをともし、賑わいを取り戻すことが、釜石の復興になるんだ!」という強い信念で、屋号を「誰そ彼」に改め、店を再開。
最初は電気がなくて、明かりはロウソクだけだったそうです。
柏崎さんの宝物「カウンターの一枚板」
意気投合 かんぱ〜い
シメもこの豪華さ
柏崎さんのような熱い人がいるから、町は着実に復興していくんだと思います。
だからこそ、私たちは柏崎さんのような人を応援し続けていきましょう
帰り際、柏崎さんがDVD「なつかしの釜石」を渡してくれました。
帰宅してからDVDを見てみると、作成されたのは平成8年。
破壊されてしまった釜石の懐かしい姿がそこにありました。
DVDの最後にメッセージが・・・
Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:02│Comments(0)
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