2017年07月16日
新潟県中越沖地震から10年
2007年(平成19年)7月16日10時13分に発生した新潟県中越沖地震から10年が経ちました。
震源は新潟県上中越沖で、震源の深さは17km、マグニチュードは6.8。
新潟県柏崎市・長岡市・刈羽村、長野県飯綱町で震度6強を観測。
死者:15名(直接死11名、災害関連死4名)、重軽傷者:2,316名、建物全壊:1,319棟、建物大規模半壊:857棟、建物半壊:4,764棟の被害をもたらしました。
(出典:新潟県中越沖地震 - Wikipedia)
ちなみに、当時は安倍晋三総理大臣(第一次安倍内閣)で、防衛大臣は小池百合子・現東京都知事でした。
2007年8月5日と6日の2日間、災害支援に行きました。
8月5日(日)
早朝、林明裕・市議会議員と自家用車で調布を出て新潟に向かいます。
7時10分 越後川口が近づくと高速道路の破損と修理の状況が顕著になって来ます。
柏崎インターで高速を下ります。災害ボランティアが柏崎市に集中すると思われたので、1日目は刈羽村へ行くことにしました。
インターを降りて一般道に入ると風景が一変。
8時30分 災害ボランティアを受け付ける刈羽村農村環境改善センターに到着。
受け付けをする林議員。
3年前に起きた新潟県中越地震(2004年10月23日)での経験が生きているせいか、受け付けがシステム化されていてスムーズです。
住所地(市町村名)と氏名を黄色いテープに、医師・看護師・介護士などの資格がある人は赤いテープに記入。
ポストイットに住所・氏名・携帯番号を記入し(写真:一部修正)、ボランティア証明書をもらいます。
名前テープを左胸に貼り、ボランティア証明書を首に掛けてスタンバイOK。
スタッフからボランティアの心得と作業内容の説明を聞きます。
林さんを含めた男性4人のチームで作業をすることになりました。
4人のポストイットをボランティア依頼票に貼付けます(写真:一部修正)。
依頼票には、依頼者の氏名・住所・依頼内容・必要な資材などが書かれていて、活動報告などを記入します(写真:一部修正)。
資材置き場で作業に必要な道具と水分をもらって出発。
作業は被災した家屋の片付け。自家用車で向かいます。
10時10分 1軒目のAさん宅に到着。
内部の様子。
片付けを開始。
午前中でAさん宅の片付けは終わりました。
次の指示を受けるために本部に戻ります。
13時20分 2軒目のBさん宅を訪問。作業はAさんと同じく片付けでした。
今日の作業は終わりかなと思ったら、3軒目のCさん宅を依頼されました。
15時20分 Cさん宅を訪問。
物置などの整理でした。
結局3軒とも被災家屋の荷物の片付けや整理でした。
本日の任務は終了です。
宿泊可能な施設が刈羽村・柏崎市になかったので、長岡市のビジネスホテルに泊まりました。
8月6日(月)
9時 災害ボランティアを受け付ける柏崎市福祉センターに到着。
ボランティアが数多く駆けつけているので、様子を見ます。
必要な人数を上回っているようなので、活動は他の方に譲り、被災状況を視察することにしました。
柏崎市役所
市議会の第1委員会室が「第2普通科連隊指揮所」として使われていました。
全国からの励ましのメッセージは被災者だけでなく、ボランティアの心にも響きます
市の幹部職員からマスコミで報道されない貴重な話を聞きました。
柏崎市の災害対策本部は、市役所1階に設置されました。
発災後数日経つと、国会議員がやって来たそうです。
政党・会派、委員会等と入れ代わり立ち代わりやって来ますが、その度に、国会議員の対応のために災害対策本部での作業・会議等が中止となり、迷惑極まりなかったそうです。
災害対策本部を一時片付けて応対したこともあったそうです。
国会議員が被災地を訪ねる必要性は理解できます。
訪ねるときは、相手に迷惑をかけていないか、訪問のあり方をしっかり気をつけてもらいたいと思います。
「誰のための被災地視察か 響かぬ激励、救援の妨げ」(2017.7.15産經新聞)
市役所向かいの喫茶店にあったメッセージ。
柏崎の目抜き通りの「えんま通り商店街」。
帰りの高速道路。
いち早い復旧作業の経験が東日本大震災のときに役立ったんだと思います。
新潟県中越沖地震、特に震度7の強い揺れが襲ったとされる柏崎刈羽原子力発電所の教訓は東日本大震災にどう生かされたのでしょうか。
原子力発電施設の総合的な地震対策についてもっと深刻に受け止めていたら・・・被害状況は違っていたのかも知れません。
福和伸夫・名古屋大学減災連携研究センター長「新潟県中越地震10年、その頃すでに指摘されていた原発災害とサプライチェーン途絶」
震源は新潟県上中越沖で、震源の深さは17km、マグニチュードは6.8。
新潟県柏崎市・長岡市・刈羽村、長野県飯綱町で震度6強を観測。
死者:15名(直接死11名、災害関連死4名)、重軽傷者:2,316名、建物全壊:1,319棟、建物大規模半壊:857棟、建物半壊:4,764棟の被害をもたらしました。
(出典:新潟県中越沖地震 - Wikipedia)
ちなみに、当時は安倍晋三総理大臣(第一次安倍内閣)で、防衛大臣は小池百合子・現東京都知事でした。
2007年8月5日と6日の2日間、災害支援に行きました。
8月5日(日)
早朝、林明裕・市議会議員と自家用車で調布を出て新潟に向かいます。
7時10分 越後川口が近づくと高速道路の破損と修理の状況が顕著になって来ます。
柏崎インターで高速を下ります。災害ボランティアが柏崎市に集中すると思われたので、1日目は刈羽村へ行くことにしました。
インターを降りて一般道に入ると風景が一変。
8時30分 災害ボランティアを受け付ける刈羽村農村環境改善センターに到着。
受け付けをする林議員。
3年前に起きた新潟県中越地震(2004年10月23日)での経験が生きているせいか、受け付けがシステム化されていてスムーズです。
住所地(市町村名)と氏名を黄色いテープに、医師・看護師・介護士などの資格がある人は赤いテープに記入。
ポストイットに住所・氏名・携帯番号を記入し(写真:一部修正)、ボランティア証明書をもらいます。
名前テープを左胸に貼り、ボランティア証明書を首に掛けてスタンバイOK。
スタッフからボランティアの心得と作業内容の説明を聞きます。
林さんを含めた男性4人のチームで作業をすることになりました。
4人のポストイットをボランティア依頼票に貼付けます(写真:一部修正)。
依頼票には、依頼者の氏名・住所・依頼内容・必要な資材などが書かれていて、活動報告などを記入します(写真:一部修正)。
資材置き場で作業に必要な道具と水分をもらって出発。
作業は被災した家屋の片付け。自家用車で向かいます。
10時10分 1軒目のAさん宅に到着。
内部の様子。
片付けを開始。
午前中でAさん宅の片付けは終わりました。
次の指示を受けるために本部に戻ります。
13時20分 2軒目のBさん宅を訪問。作業はAさんと同じく片付けでした。
今日の作業は終わりかなと思ったら、3軒目のCさん宅を依頼されました。
15時20分 Cさん宅を訪問。
物置などの整理でした。
結局3軒とも被災家屋の荷物の片付けや整理でした。
本日の任務は終了です。
宿泊可能な施設が刈羽村・柏崎市になかったので、長岡市のビジネスホテルに泊まりました。
8月6日(月)
9時 災害ボランティアを受け付ける柏崎市福祉センターに到着。
ボランティアが数多く駆けつけているので、様子を見ます。
必要な人数を上回っているようなので、活動は他の方に譲り、被災状況を視察することにしました。
柏崎市役所
市議会の第1委員会室が「第2普通科連隊指揮所」として使われていました。
全国からの励ましのメッセージは被災者だけでなく、ボランティアの心にも響きます
市の幹部職員からマスコミで報道されない貴重な話を聞きました。
柏崎市の災害対策本部は、市役所1階に設置されました。
発災後数日経つと、国会議員がやって来たそうです。
政党・会派、委員会等と入れ代わり立ち代わりやって来ますが、その度に、国会議員の対応のために災害対策本部での作業・会議等が中止となり、迷惑極まりなかったそうです。
災害対策本部を一時片付けて応対したこともあったそうです。
国会議員が被災地を訪ねる必要性は理解できます。
訪ねるときは、相手に迷惑をかけていないか、訪問のあり方をしっかり気をつけてもらいたいと思います。
「誰のための被災地視察か 響かぬ激励、救援の妨げ」(2017.7.15産經新聞)
市役所向かいの喫茶店にあったメッセージ。
柏崎の目抜き通りの「えんま通り商店街」。
帰りの高速道路。
いち早い復旧作業の経験が東日本大震災のときに役立ったんだと思います。
新潟県中越沖地震、特に震度7の強い揺れが襲ったとされる柏崎刈羽原子力発電所の教訓は東日本大震災にどう生かされたのでしょうか。
原子力発電施設の総合的な地震対策についてもっと深刻に受け止めていたら・・・被害状況は違っていたのかも知れません。
福和伸夫・名古屋大学減災連携研究センター長「新潟県中越地震10年、その頃すでに指摘されていた原発災害とサプライチェーン途絶」
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