たまりば

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2013年08月16日

東日本大震災被災地訪問2日目⑧ 「スペシャル海鮮丼」

17時10分 かみさんと娘が美味しいものを食べてから帰りたいというので、7月にお世話になった(2013.7.21ブログ)釜石市大町の「誰そ彼(たそがれ)」に。


開店時間前でしたが、お店に入れてくれましたface02

店主の柏崎久雄さんに『スペシャル海鮮丼』を特注。


驚きの豪華海鮮丼icon_bikkuri 超美味にびっくりicon_bikkuri2




釜石を後にして、調布に帰ります。

途中で渋滞icon_maro06



3時55分 やっと調布に着きました。かんぱ〜いicon_wine




今回、3人で4台のカメラを持って行きました。


撮った写真の枚数は、4台合わせて2,423枚。

  

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:08Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2013年08月16日

    東日本大震災被災地訪問2日目⑦ 「釜石の奇跡」

    16時50分 釜石市鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中学校鵜住居小学校の跡地に着きました。
    津波で被災した校舎はすでに取り壊されています。


    東日本大震災の津波による死者・行方不明者が1,040人を数えた釜石市では、病気で学校を休んでいた子や自宅の裏に住むおばあさんを連れて逃げようとして津波に襲われた女子中学生など残念ながら5人の小中学生が亡くなりましたが、児童生徒2,921人が津波から逃れることができました。

    釜石東中や鵜住居小など学校管理下にあった児童生徒に限らず、釜石小学校の児童など下校していた子どもたちも多くが自分で判断して高台に避難しました。

    小中学生99.8%の生存率は「釜石の奇跡」と言われています。


    子どもたちの命を救った背景には、「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」を意味する「津波てんでんこ」(Wikipedia)の思想がありました。

    「てんでんこ」とは、明治三陸地震(1896年、明治29年)や昭和三陸地震(1933年、昭和8年)など度重なる地震による津波で大きな被害を受けた三陸地方沿岸部特有の思想です。

    「肉親にも構わず」と聞くと薄情な気がしますが、家族を助けようとして一家全滅した事例が多かったことから生まれた、一人でも子孫を残そうとする究極の教訓です。



    こうした土壌を生かして釜石市の小中学校で徹底して行われていたのが「津波防災教育」でした。

    釜石市の津波防災教育は、どのようにして始まったのでしょうか。

    群馬大学大学院の片田敏孝教授は2003年に三陸地方の住民の防災意識を調査した時、「危うさ」を感じました。

    住民は、津波警報が発令されても「到来した津波は数十センチ」という繰り返しに慣れてしまい、いつの間にか、「津波が来たときには、指示された避難場所に行けばよい」「防波堤、防潮堤があるから大丈夫」という油断が生まれていたのです。

    片田教授は、三陸地方の自治体に、共に防災教育に取り組むことを打診しました。

    手を挙げたのが、釜石市でした。
    ここ最近、津波警報が発令されても市民の避難は低調で、釜石市は危機感を強めてたからです。

    片田教授は、まずは社会人教育を行おうと、講演会を何度か開催しましたが、来場するのは一部の市民ばかりでした。

    そこで、糸口にしたのが学校教育。
    防災教育を受けた小中学生は、いつか成人となり、家庭を持ち、結果的に社会全体の底上げにつながるからです。

    当初は、小学校を訪ね、防災教育の実施を提案しても、反応は冷ややかでした。

    防災教育の必要性を理解している教育長に相談したところ、平日の午後、全校を休校扱いにして、空いた時間帯に教員向けの防災講演会を実施する機会を与えてくれました。

    その時、片田教授は「防災意識が不十分な今の釜石に育つ子どもたちは、今のままでは次に襲来する津波から逃れられない。そして、その津波は彼等の一生のうちにほぼ必ず襲来する」と訴えました。

    自分の命を守ることが何にも増して重要なことと感じ取ってくれた多くの教員が、教授の呼びかけに応じ、2006年、「津波防災教育」が始まったのです。




    子どもたちはどのように避難したのでしょうか。

    中日新聞より)

    実際の避難ルートに合わせて、自動車で走ってみます。


    地震発生
    釜石東中学校ではすでに授業が終了していて、1年生は帰りの会、2年生はクラブ活動中、3年生は卒業式の準備をしていた。
    一方、釜石東中に隣接する鵜住居小学校は放課直前であり、多くの児童は校舎内に滞在していた。

    釜石東中では、大きな揺れの最中、副校長が校内放送を使って全校生徒に避難の指示を出すことを試みた。
    しかし、地震発生直後、停電になってしまったため、それをすることができない。
    仕方なく、ハンドマイクで生徒に校庭への避難の呼びかけを試みるようとしたが、それは不要だった。
    多くの生徒は地震の揺れの大きさから“ただ事”ではないことを察知し、各々で揺れから身を守るための最善の対応を行い、揺れがおさまった後に、自らの判断で校庭に集合し始めたのである。
    そして、ある先生が生徒に向かって、「逃げろ」と叫ぶと、運動部員を先頭に全生徒は予め決めておいた第1避難場所、グループホーム「ございしょの里」に向け走り始めた。

    一方の鵜住居小では、津波の襲来に備えて、全校児童を校舎の3階に移動させていた。
    しかし、中学生が避難していく様子を見て、すぐに校外への避難を決断する。

    釜石東中の生徒たちは、鵜住居小の児童にとって『率先避難者』となったのである。
    児童たちは中学生のあとを追って、「ございしょの里」へ。


    学校から約700m離れた「ございしょの里」まで走りきった小中学生はその場で点呼を取り、避難は無事に完了したかに見えた。


    しかし、ございしょの里の職員や生徒数名が、建物の裏山の崖が崩れていることを発見する。
    「ここも危険だから、もっと高いところに避難しよう」と生徒は先生に進言する。

    釜石東中の先生は、さらに約400m先にある第2避難場所「やまざき機能訓練デイサービスホーム」への避難が可能であるかどうかの確認に走る。

    避難可能の確認がとれ、小中学生は、さらにもう一度走り出す。
    中学生は訓練した通りに、小学生の手を引き、避難を支援する。


    避難の道中、園児を抱えながら、園児を乗せた散歩用の台車を押し、必死に避難する鵜住居保育園の保育士を生徒たちは目撃する。
    ここでも生徒たちは教えられた通り、『助ける人』としての役割を果たすこととなる。
    保育士と一緒に園児を抱え、台車を押し、必死に避難。

    釜石東中と鵜住居小の生徒・児童及び教職員、鵜住居保育園の園児・保育士、近隣の病院の患者、ございしょの里の入所者など、全部で700名以上が一斉に「やまざきデイサービスホーム」に逃げた。
    (写真:内閣府「東日本大震災から学ぶ」より))



    高台にある「やまざきデイサービスホーム」に到着。


    点呼を取り始めたとき、消防団員や周辺にいた地域住民の「津波が堤防を越えた!」という叫び声が。
    振り返ると、津波が町を襲っていた。
    (写真:和歌山県津波防災教育指導の手引きより)


    「逃げろ」「止まるな」「自分の命は自分で守れ」先生が大声で叫んだ。
    全員がさらに高台の国道45号線にある石材店展示場を目指して駆け上がる。


    ようやく石材店展示場に到着。



    しばらくのち、避難している場所が屋外であったため、屋内で滞在可能な場所への避難を開始する。

    トラックでピストン輸送してもらい、地震の6日前に開通したばかりの釜石山田道路(縦貫道)を通って、旧釜石第一中学校体育館まで移動し、そこで一晩を過ごした。
    翌日、鵜住居小学校の児童は甲子小学校へ、釜石東小学校の生徒は甲子中学校へと移送してもらい、避難生活を送ることとなった。

    こうして、津波襲来時に学校管理下にあった鵜住居小学校、釜石東中学校の児童・生徒約570人は無事に津波から生き残った。




    釜石東中は3階まで浸水。(以下写真3枚:和歌山県津波防災教育指導の手引きより)


    鵜住居小を襲った津波は校舎を超えました。


    最初に避難した「ございしょの里」にも津波が押し寄せました。




    片田教授は、釜石東中で5年前から防災教育に取り組んできました。

    避難訓練だけでなく、津波のメカニズムを学び、通学路の防災マップを作製するなど、年70時間の総合学習の3分の1を費やしていました。

    防災教育の3つの原則、「①想定を信じるな、②最善をつくせ、③率先避難者たれ」を徹底して指導。

    この原則で、両校の避難行動をみてみると、この地区が浸水想定区域外という想定にかまわず、釜石東中の生徒らは地震後すぐ避難を開始(①)。
    鵜住居小は中学生が避難したのをみて学校から出た。両校は一つ目の避難所でがけ崩れをみて、さらに避難(以上②)。
    避難は中学のサッカー部員に端を発し、途中で合流した保育園児や周囲の住民も含め、多くの人を避難行動にかりたてた(③)。


    一方、鵜住居小では、地域住民の参加も呼びかけた上での釜石東中との合同避難訓練を実施していました。

    また、片田教授は、子どもたちに家庭でこんな会話をさせたと言います。
    「僕は絶対に逃げる。信じて。だからお母さんも逃げて」
    実際、鵜住居小に娘3人がいた美容院勤務岩崎久美子さんは地震後、海に近い小学校へ向かわず、自宅から高台へと避難して助かりました。
    「心配でしたが、子どもは避難しているはず…、と自分に言い聞かせた」


    「釜石の奇跡」は決して偶然起きたものではないのです!



    <参照>

    ・動画:現場の戦い「津波てんでんこ 釜石東中・鵜住居小」(土木学会東日本大震災アーカイブ)

    防災教育から生まれた『釜石の奇跡』-片田教授に聞く-(前半)(YouTube)


    防災教育から生まれた『釜石の奇跡』-片田教授に聞く-(後半)(YouTube)


    津波てんでんこ「釜石市鵜住居」(YouTube)



    「片田敏孝先生のいのちを守る特別授業」(NHK)
    「小中学生の生存率99.8%は奇跡じゃない」(WEDGE Infinity)
    鵜住居小学校・釜石東中学校におけるこれまでの活動と津波襲来時の対応(群馬大学災害社会工学研究室)
    釜石、生死分けた津波避難 明暗・上(中日新聞)
    東日本大震災から学ぶ 〜いかに生き延びたか〜(内閣府)
    焦点/防災教育「奇跡」呼ぶ/生存率99.8%、釜石の小中学生(河北新報社)
    インド洋津波に関する報道が釜石市民の意識・行動に与えた影響に関する実態調査報告書(群馬大学災害社会工学研究室)
    復興へのビジョンを語る「生徒全員が生き延びることができたー齋藤・釜石東中生徒指導部長」(全労済)
    「奇跡はいかに起きたか 釜石の防災教育ー2(産経新聞)
    学校における 防災教育



    食事をして調布に帰ります。  

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:07Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2013年08月16日

    東日本大震災被災地訪問2日目⑥ 「釜石市消防団第6分団屯所」

    1階の左側が釜石消防署鵜住居(うのすまい)出張所、右側が釜石市消防団第6分団第1部屯所。2階は鵜住居地区防災センター。


    消防団第6分団屯所


    屯所の中には、半纏、防火服等が点在していました。
    団員の安否が気になります。


    (右)消防操法競技会準優勝カップ


    まとい


    待機室



    釜石市消防団第6部では、津波が来るのが分かっていても、住民を避難させたり、ポンプ車を移動させようとして、部長1名と団員2名が亡くなりました。

    同じ消防団員として、命を賭した献身的な活動に心から敬意を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。


    「大丈夫の思い込みが生死を分けた」釜石市消防団本部 鈴木堅一分団長、「高いところにいろ、せっかく助かった命だ」第6分団 佐々幸雄副分団長〜「消防団の闘い」(日本消防協会)



    「釜石の奇跡」と呼ばれた釜石東中学校と鵜住居小学校の跡地に向かいます。
      

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:06Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2013年08月16日

    東日本大震災被災地訪問2日目⑤ 釜石市「鵜住居地区防災センター」

    15時50分 釜石市の鵜住居(うのすまい)地区防災センターに着きました。


    家族は初めてですが、私は先月21日に訪ねて以来です。
    その時は、釜石消防署鵜住居出張所と消防団第6分団屯所は分かったものの、入り口が別の防災センターには気が付きませんでした。
    帰宅してから、防災センターは出張所、屯所との複合施設であることを知りました。(2013.7.21ブログ


    防災センターは、海岸線から約1.2 km、鵜住居川から約200mの鵜住居地区の中心部にあります。(地図:鵜住居地区防災センターにおける東日本大震災津波調査委員会「中間報告書」より


    「中間報告書」によると、防災センターに避難した近隣住民、施設関係者は244名と推計されています。
    生存者は34名しかいないので、210名がここで犠牲になったことになります。
    ただし、平成24年11月現在、防災センターに避難しセンター内で身元が確認された犠牲者は69名、防災センターに避難しセンター周辺で身元が確認された犠牲者が27名となっています。

    かみさんと娘は建物の中に入るのを嫌がったので、ひとりで防災センターの中に入ります。


    防災センターは鉄筋の2階建て。
    1階はそのまま津波にのみ込まれました。
    天井はすべて剥がれ落ち、骨組みがむき出しになっています。


    1階エレベーター


    祭壇がつくられていました。












    2階に上がります。


    案内図がありました。





    (「中間報告書」より)



    2階ホールから避難室方向。


    エレベーター



    男子トイレ。天井に津波の跡が。


    天井と壁との間に本が挟まっていました。



    廊下の天井



    第2研修室


    2階の天井近くに達した津波の痕跡。残された空間は20cmほど。
    このわずかな空間が30数名を救いました。



    調理室


    窓ガラスの割れ方が津波の威力を語っています。



    一番奥にある防災備蓄倉庫


    津波の力で天井が上がっています。



    最も多くの方が亡くなった避難室(ホール)





    祭壇に遺族の手紙が貼ってありました。



    私は月命日のたび、この場所に来て居る遺族の一人です。
    ここで娘とまだお腹の中にいる孫を亡くしました。
    この破壊された建物をみて 手を合せ 多くの方々の尊い命、娘の命は無駄にしてはいけないのではないかと強く思っています。
    ここは 私達家族にとって 言い表すことの出来ないほど 辛く嫌な場所です。
    それでも、娘に会えるような気がして… 娘と話が出来るような気がして 月命日にはここに来て手を合せています

    ところが先日 この多くの犠牲者を出した 防災センターを取り壊しのニュースを見てから 多くの疑問を感じています。
    取り壊した娘達の働いていた職場の園舎の時も 何も知らされることなく行なわれたのです。
    今度は この防災センターさえも 取り壊しが遺族会から決定されたというニュースを聞きました。

    私達も遺族です。
    何処に住んでいても遺族です。
    どうしてこのような大事なことが 今回もまた一切知らされないまま決まってしまうのでしょうか
    遺族の一人として 決まった過程について明らかにしてほしいと思っています。
    このような疑問を持っているのは私達家族だけなのでしょうか…。

    先日、釜石市長さん 遺族会会長さんにそれぞれ手紙を出していますが 取り上げてさえくれないのではないでしょうか…。
    私は、取り壊しには、反対です
    津波で破壊されたこの建物を「もの言わぬ語り部」として 永遠に残して欲しいと思っています。

    今でも ここに多くの方々が訪れている姿を目にしますが ひと目で防災教育の在り方や大切さを学んで帰って下さっていると思います。
    多くの尊い命を犠牲にした防災センターを取り壊して 何もなかったことにしようとしているように思えてなりません
    これ程多くの尊い命を無駄にしてはいけない。
    この現実を知っていただきたい。
    どうか取り壊さず残していただきたいと思います

    私たちは、海で生活しています。
    今ここで生きていくためにも 同じ過ちは絶対に許されないと思います
    私たちと思いを一緒にする方も多くおられると思い遺族の一人として 今 出来ることをしようとして このような手紙を書きました。

    平成25年8月12日
    大船渡市
    寺澤 仲子

    (※句読点は原文のまま。住所の後半は略しました。写真は住所後半部分修正)


    寺澤仲子さんの長女理香子さん(当時31歳)は、防災センターの隣にあった市立鵜住居幼稚園の臨時教諭でした。
    妊娠9カ月で、震災当日は産休前の最後の出勤日。
    同僚とセンターに避難し、おなかにいた「陽彩芽(ひいめ)ちゃん」とともに犠牲になりました。
    4日前に女の子と分かり、「太陽のように明るく、彩りをもった人生を」との願いを込め、夫浩一さん(44)と名付けたばかりでした。



    天井の梁には、津波によると思われる泥の跡が残っていました。






    防災センターは、津波の時に避難する1次避難場所ではなく、その後に生活する拠点避難所に位置づけられていました。

    なぜ住民は防災センターに避難してしまったのでしょうか。
    このような悲劇が起きてしまった原因は何だったのでしょうか。


    ①釜石市は、消防署鵜住居出張所・消防団第6分団屯所・生活応援センター・地区防災センターを複合施設として整備。施設名称を「鵜住居地区防災センター」とし、平成22年2月1日に開所式を行った。

    ②それまでの鵜住居地区の津波避難訓練は、鵜住神社境内、常楽寺裏山を津波1次避難場所として実施してきた。

    ③当時の津波避難訓練の課題は、参加者が少ないこと。その要因の一つは津波1次避難場所までの距離が遠いことにあった。

    ④近年、三陸沖地震による大津波の発生の確率が高まっている状況下、市や自主防災会は、訓練参加人数を上げることが喫緊の課題と認識していた。

    ⑤防災センターの改築を機に、自主防災会から、住民の避難行動を促し参加者数を高めるため、防災センターを仮の津波1次避難場所として津波避難訓練を実施したいとの要請があった。

    ⑥市は、自主防災会と協議し、実際の津波の場合は決められた「津波1次避難場所」に避難することを条件に、防災センターを「仮の津波1次避難場所」として津波避難訓練を実施することを了承した。

    ⑦防災センターが開所した月の28日、チリで発生した地震による大津波警報が発表された際、防災センターに34人の住民が避難した。

    ⑧平成22年5月の釜石市津波避難訓練では、68人の住民が防災センターに避難し、津波避難訓練に参加した。

    ⑨大震災8日前の3月3日の市主催の津波避難訓練では、早朝6時という時間にも関わらず101名もの多くの住民が参加した。


    ⑩震災直前の3月9日、三陸沖地震地震が発生した際も、防災センターに避難した人がいた。

    ⑪しかし、このような事態を受けても、市は住民に対し、「津波1次避難場所は鵜住神社境内と常楽寺裏山で、防災センターではない」旨の告知を行わなかった。

    ⑫3月11日大震災発生後、多くの住民は訓練通り、防災センターに避難してしまった。



    ※避難場所・避難所等の呼称について
    1.津波避難場所
    津波注意報、津波警報が発表されたときに一次的に避難する高台などで、1次避難場所、緊急避難場所とも呼ばれる。
    2.拠点避難所
    大規模な災害が発生し、市が地域に「避難勧告」や「避難指示」を発令したときに、災害内容(規模・地域など)に応じて開設する中・長期の避難生活を前提とした避難所。


    屋上に人が立っているのが防災センター。2階部分のほとんどが水没しています。

    (写真:以上5枚=「鵜住居地区の津波被害」より)



    市の「生存者への聞き取り調査」によれば、防災センターが1次避難場所であると誤って認識している人や、防災センターの完成によって1次避難場所が変更になったと勘違いしている人が少なくありませんでした。

    避難訓練で幾度も防災センターを使用する過程で、住民の間に「防災センターが避難場所」という認識が広り、それが相乗効果となって震災当日に多くの住民を防災センターに向かわせる要因となってしまったのです。


    一方、全国から視察訪問が相次ぐ中、遺族連絡会や鵜住居地区復興まちづくり協議会などは連名で今年7月8日、防災センターの早期解体を野田武則市長に要望。
    解体の是非を検討する「震災メモリアルパーク整備検討委員会」が7月29日に同意し、釜石市は解体することを決めました。

    被災当時の姿を残す「震災遺構」として保存を望む声もありましたが、つらい記憶がよみがえるとして解体を求める遺族らの心情に配慮した結果です。
    10月にも工事に着手する予定です。

    野田市長は「教訓として残すべきだとの議論もあるが、遺族の意思を尊重するとの判断に達した。市の公共施設で多くの尊い命が失われたことは市にも責任があり、申し訳なく思う」と話しています。



    <参照>

    ・動画:釜石市 鵜住居地区の津波被害(テレビ朝日)

    釜石市鵜住居地区防災センターにおける東日本大震災津波調査委員会「中間報告書」
    鵜住居地区防災センターに関する検証と対策について(釜石市災害対策本部)

    訓練で使ったのに…津波にのまれた拠点避難所(読売新聞)
    建物消えても「ここで娘と語らう」(毎日新聞)
    津波被害:鵜住居地区防災センター解体決まる 岩手・釜石(毎日新聞)
    釜石、生死分けた津波避難 明暗(上)(中日新聞)
    被害が大きかった釜石市鵜住居は(Business Media 誠)
    調査委「市の責任重い」 釜石・鵜住居防災センター(岩手日報)
    3.11 462)鵜住居地区防災センター(朝日新聞)



    隣接する消防団第6分団屯所を訪ねます。
      

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:05Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2013年08月16日

    東日本大震災被災地訪問2日目④ 陸前高田市「奇跡の一本松」

    13時25分 陸前高田市「奇跡の一本松」に着きました。
    遠方に「一本松」が見えます。


    専用駐車場に車をとめて、歩行者用通路を歩きます。


    「奇跡の一本松」と「陸前高田ユースホステル」。



    陸前高田ユースホステルは、津波により建物が崩壊するなど大きな被害を受けましたが、2011年1月より営業を休止していたため、人的災害はありませんでした。

    この建物が奇跡の一本松の海側に立地していたことから、緩衝材となって波の力を弱め、奇跡の一本松が残ったと言われています。



    高田松原は、約350年前から先人たちが植林を行い、市民の手で守り育ててきました。

    市民はもとより県内外の来訪者から四季を通して愛される高田松原は、まさに陸前高田市の象徴とも言える存在でした。



    平成23年3月11日、陸前高田市を地震と大津波が襲いました。
    死者、行方不明者は2,000人近くにのぼり、市街地や海沿いの集落は壊滅しました。

    過去の度重なる津波から高田のまちを守ってきた、約7万本と言われる高田松原も10メートルを超える大津波に呑み込まれ、ほとんどが流されてしまいました。

    その中で唯一耐え残ったのが「奇跡の一本松」です。




    駐車場の売店に被災前の高田松原の写真が掲示されていました。



    被災前後



    津波に耐えて奇跡的に残った一本松でしたが、海水により深刻なダメージを受け、2012年5月に枯死が確認されました。

    しかし、震災直後から、市民のみならず全世界の人々に復興のシンボルとして親しまれてきた一本松を、今後も後世に受け継いでいくために、陸前高田市ではモニュメントとして保存整備することにしました。

    それが「奇跡の一本松 保存プロジェクト」です。

    2012年9月、最後に残った松の木が伐採されました。
    切られた松は防腐処理を施した上で元の場所に戻す復元工事が行われ、2013年7月に完成式典が行われました。

    なお、この一本松の復元事業費約1億5千万円は陸前高田市による募金運動により賄われました。






    奇跡の一本松の近くに道の駅 高田松原(タピック45)がありました。

    震災前は高田松原物産館やレストラン、観光協会などが入っていて、陸前高田市の観光拠点として活用されていました。

    中を見てみると・・・


    凄まじい光景が。




    タピック45の向かいに東日本大震災追悼施設が建っていました。


    犠牲になった人を慰霊する場となっていた市役所庁舎および市民会館が取り壊されたことから、2013年1月18日に追悼の場としてタピック45敷地内に建設されました。

    木造平屋建てで、被災した高田松原の松を使っています。
    施設内には緑御影石の慰霊碑や献花台が設けられました。
    また、全国各地から贈られた千羽鶴と被災前後の市街地の写真なども展示されていました。


    震災前後の写真





    市役所跡地と市役所の斜め向かいにあった市民会館跡地に行ってみます。
    両施設とも既に解体されているため、GPSが頼りです。


    右側に市役所、左側に市民会館があったと思われます。


    被災直後の写真。右:市役所、左:市民会館



    この2つの施設に避難した住民や市職員など100人以上が亡くなりました。

    特に市の指定避難場所だった市民会館には、70~80人が避難しましたが、助かったのは十数人だけでした。




    市指定避難場所だった市民体育館も津波が直撃。
    避難した約100人のうち助かったのは3人だけでした。

    (写真:左/佐々木のホームページ、右=「被災地から2」より)


    体育館は海抜約3メートルの土地に建ち、地上から2階通路まで約6.4メートルありました。
    市によると、51年前に市を襲ったチリ地震津波の高さは5.5メートル。

    市防災対策室の担当者は言います。「『予想される津波の高さは6メートル』と伝えていた。6メートルなら体育館に来るころはもっと低くなると思った。チリ地震津波の高さなら、市の想定では浸水は1階だけで済むはずだった」。

    しかし、震災後に現地調査した東京海洋大の岡安章夫教授(海岸工学)によると、体育館を襲った津波の高さは壁の痕跡などから推定15.8メートルでした。

    4月11日、戸羽太市長は言いました。
    「災害は想定しちゃいけない。常に最悪の事態を考えないと、大変なことになる」



    国道45号線に出る途中に「松原七夕祭組」の看板が立っていました。


    松原祭組の山車


    8月7日、松原祭組の山車は「陸前高田 うごく七夕まつり」で3年ぶりに復活を遂げました。

    その時の模様が、BSフジで放送されています。
    『一滴の向こう側』第5回「2013年 復活にかけた夏」(全4話)
    第1話9月7日(土)、第2話9月14日(土)、第3話9月21日(土)、第4話9月28日(土) いずれも22:00~22:30



    まだ、瓦礫の山が残っていました。


    大船渡線の線路跡。




    国道45号線を釜石方向に向かいます。

    定住促進住宅下宿団地

    国道45号沿いに定住促進住宅が2棟建設されていましたが、海側の1号棟が「震災遺構」として保存されることになりました。

    津波襲来時には鉄筋コンクリート造5階建ての4階部分まで浸水し、津波襲来の高さが一目でわかります。



    陸前高田市は、地震の教訓と津波の破壊力を後世に伝えるため、犠牲者が出ていない施設に限定し、「奇跡の一本松」と「陸前高田ユースホステル」、「道の駅 高田松原(タピック45)」、「気仙中学校」、「定住促進住宅下宿団地」を震災遺構として保存することにしました。



    <参照>
    奇跡の一本松(陸前高田市ホームページ)
    流出した松を使った追悼施設 陸前高田市【東日本大震災パノラマ Vol.256】
    陸前高田に震災追悼施設が完成-市庁舎や市民会館の代わりに(三陸経済新聞)
    東日本大震災追悼施設開所式(facebook)
    復興のシンボル「奇跡の一本松」①【東日本大震災パノラマ Vol.266】

    「安全」信じた体育館に津波 陸前高田(中日新聞)
    証言3・11:東日本大震災 体育館100人避難、生存者3人 弱者襲う非情の津波(毎日新聞)
    東日本大震災 写真リポート 陸前高田編 撮影 山村武彦
    証言/市役所屋上、命のとりで/陸前高田・避難所で多数の犠牲者(河北新報社)
    亡き妻の携帯、甦った3・11 陸前高田の復興現場 2年ぶり家族の元へ(MSN産経ニュース)
    あの波ではダメだ。なめていたんだ、津波の怖さを…。消防活動中に家族3人を失った店主の「枯れ果てた涙」 (ダイヤモンド・オンライン)

    鎮魂願い山車練り歩く 岩手・陸前高田「うごく七夕」

    「復興という状況にはまだない」―陸前高田市長が語る被災地の現状 (Business Media 誠)
    震災遺構(株式会社気仙タクシー)

    動画:
    陸前高田市消防団員の津波映像 フル映像その1
    陸前高田市消防団員の津波映像 フル映像その2
    陸前高田市消防団員の津波映像 フル映像その3



    釜石市の鵜住居地区に向かいます。  

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:04Comments(0)今日の出来事

    2013年08月16日

    東日本大震災被災地訪問2日目③ 気仙沼市「第18共徳丸」

    宮城県気仙沼市に入ります。

    国道45号気仙沼バイパス沿いには、見事な花壇が整備されています。
    この取り組みには、市内の企業、地元の自治会やボランティア団体、中学生など、合計約44団体、約4,000名が作業に参加。
    サルビアやブルーサルビア、ベゴニアなどを植栽しています。

    気仙沼市ホームページ「花のみち45」





    12時20分 東日本大震災の津波で内陸に打ち上げられた第18共徳丸
    ここに来るのは私も初めてです。


    第18共徳丸は全長60メートル、総トン数330トンの大型巻き網漁船。
    気仙沼市のドックに入るため港に係留中、津波によって、港から600メートルあまり離れたJR大船渡線鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅近くまで運ばれました。



    ガレキや他の漁船が取り除かれて、周囲が更地になった今も、大きすぎて移動できなかった第18共徳丸だけが残っていました。




    気仙沼市は、震災の記憶を伝えるモニュメント「震災遺構」として保存を目指し、約2年半にわたり解体が見送られてきました。

    共徳丸を所有する水産会社「儀助漁業」(福島県いわき市)は「保存に反対する地元住民が多い」などとして市に解体の意向を伝えました。

    市は同社に翻意を促そうと、7月に市内の全世帯に船の保存の賛否を問うアンケートを実施。
    約1万4千通の回答が寄せられた結果、「保存の必要はない」との回答が68.3%を占めることに。
    「保存が望ましい」は16.2%、「船体の一部や代替物で保存」は15.5%でした。

    アンケート結果を受け、菅原茂市長は保存を断念しました。


    住民の多くが保存に反対した背景には、共徳丸がかつての住宅街の中にあること、見学者が住宅の跡地に立ち入ることなどもあったのかも知れません。



    気仙沼の共徳丸、9日から解体【東日本大震災パノラマ Vol.261】


    <参照>
    ・動画:「震災で宮城・気仙沼市に打ち上げられた漁船の解体工事始まる」(FNNnews)

    「気仙沼市、打ち上げ船保存を断念 市民の7割『必要ない』」(MSN産経ニュース)
    「第18共徳丸の解体始まる 震災遺構を断念、スクラップに」(The Huffington Post)
    「11日で震災2年半 29万人が避難生活 気仙沼の大型漁船、解体始まる」(MSN産経ニュース)




    第18共徳丸の近くにある気仙沼 鹿折 復興マルシェで食事しようと思いましたが、混んでいるので断念。


    娘が、かき氷を一所懸命に売っている子どもたちの声を聞きつけて買ってきました。




    陸前高田市「奇跡の一本松」に向かいます。  

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:03Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2013年08月16日

    東日本大震災被災地訪問2日目②「南三陸町防災対策庁舎」

    10時50分 南三陸町の防災対策庁舎。

    たくさんの人が訪ねていました。


    2階の放送室では、町職員の遠藤未希さんが、上司の三浦毅さんと交代しながら、「高台に避難してください」「逃げてください」などと、津波が来る直前まで防災無線で呼び掛け続けていました。

    私は7月に訪ねて以来。
    初めて来たかみさんと娘は無言で建物を見続けていました。






    「防災対策庁舎」について、詳しくは「2013.7.22ブログ」をご覧下さい。



    気仙沼市「第18共徳丸」に向かいます。

      

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:02Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2013年08月16日

    東日本大震災被災地訪問2日目①「女川町」

    カミさんと娘の家族3人での東日本大震災被災地訪問2日目です。

    7時 宿泊したホテル華夕美(はなゆうび)で朝食。

    女将自らレストランテラスで「さんま」を焼いています。 


    ちょっと食べ過ぎ?


    出発します。



    石ノ森章太郎作品のキャラクターのラッピングを施した「マンガッタンライナー」が走っていました。 
    石巻線は、小牛田駅 - 浦宿駅間は復旧しましたが、浦宿駅 - 女川駅間は現在も不通となっています。




    女川町中心部に着きました。
    高台に建つ女川町地域医療センター(旧女川町立病院)


    避難階段を上がります。津波の威力で右側の手すりが無くなっています。


    高さ16メートルの高台に到着。
    避難場所に指定されていたここをも津波が襲いました。



    高台に建つ町立病院に、1階の床より1.95メートル高い津波が。娘の身長を遥かに超えています。




    「証言/宮城・女川中心部壊滅/海抜16メートル 濁流、病院襲う」(河北新報社)

    ・動画:「女川町を襲う大津波」(YOMIURI ONLINE)

    ・動画:「女川 津波 1 東日本大震災」(YouTube)

    ・動画:「女川町の津波の高さが尋常ではない件」(YouTube)



    慰霊碑で黙祷



    病院の隣りに女川さいがいFMのコンテナハウスがありました。


    放送はお休み中。


    NHKの特集ドラマ「ラジオ」で取り上げられたコミュニティFM局です。

    ドラマの主役「某ちゃん」のブログは、現在非公開となっていますが、某ちゃんの有名なブログ「本当に受け入れてほしかったモノは」はこちら(文化放送報道部ブログ)で見ることができます。

    女川さいがいエフエムは、ネット配信を通じて全国の主なコミュニティFM放送局の番組が聴けるサイト「サイマルラジオ」を通じ、パソコン、Android端末、iPhone端末でも聞くことができます。
    詳しくはこちら

    大学進学のため上京した某ちゃんは元気にやっているでしょうか。




    中心部には、津波によって倒壊した3つの建物が残されています。

    町の復興計画策定委員会は2011年6月、「津波による鉄筋ビルの倒壊は世界的にも珍しい」として保存の方向性を示しました。

    しかし、住民の意見は保存と解体で割れています。
    町は住民の意向も踏まえ、工事の進行状況を見ながら判断する方針です。

    「保存か解体か 住民意向割れる 宮城・女川の『震災遺構』」(河北新報社)


    「江島共済会館」


    「女川サプリメント」


    「女川交番」。かさ上げ工事区域にあるため、近づくことができませんでした。





    観光桟橋手前に女川町観光協会案内所「リビルドショップ」がありました。
    店内では、女川町の特産品、震災関連の書籍・写真集などを販売している傍ら、震災の写真が展示されていました。


    スタッフの阿部真紀子さんに話を伺いました。
    何と、阿部さんは「調布から!復興支援プロジェクト」でお世話になったいる「ママサポーターズ」の八木純子さんのお友達でした。



    中心部の看板








    女川町は町中心部の「整備方針」を
    ①現市街地の浸水区域は多重防御機能を持たせた嵩上げを行う。
    ②旧市街地周辺の山の造成により、新たな市街地を整備する。
    ことにしました。
    ・水産業施設⇒現港湾部
    ・商業・観光業施設⇒現港湾部・女川駅周辺
    ・居住施設⇒現運動公園周辺・宮ヶ崎地区・鷲神浜地区・旭が丘団地
    ・行政施設⇒現運動公園南側




    女川町復興基本計画図(素案)

    女川町復興計画

    女川町復興整備計画


    特筆すべきことは、他の多くの被災地と異なり、巨大な防潮堤に守られる選択をしなかったことです。

    復興計画には「今回の教訓から防潮堤などを整理するいわゆるハード面の完璧な防災を目指すことに限界があることがわかった。基本理念として『減災』という視点を取り入れることにした」とあります。

    「海との共生」を選んだ女川町の復興をこれからもしっかりと見守っていきたいと思います。





    南三陸町「防災対策庁舎」に向かいます。
      

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:01Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所