たまりば

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2016年08月11日

岩手・宮城・福島県訪問2日目-3

宮古市田老地区の「学ぶ防災」(2016.8.11ブログ「岩手県・宮城県・福島県訪問1日目-2」)から陸前高田に向かいます。



お盆の影響か、道路がかなり混んでいて思うように移動できません。
釜石市鵜住居地区と南三陸町はあきらめ、陸前高田市に行くことに。

15時過ぎ、陸前高田に着き、遅い昼ごはんを食べようと、仮設商店街の一つ「栃ケ沢ベース」に行ったところ、10分の差で蕎麦屋さんが閉まっていました。


隣の雑貨屋さんの女将さんに聞くと・・この時間でもやっているお店があると教えてもらったのが、車で7分程のみつわ飯店へ。


お薦めのルースー麺をいただきました。


震災前は市役所の近くで営業していましたが、高台に移動したそうです。


店内には励ましの色紙がたくさん貼ってありました。



旧・道の駅高田松原(タピック45)




せっかくなので、温泉に入りたいなと、陸前高田、女川などで探しますが、祭日なのでどこも満室face11
やっと取れたのが、石巻グランドホテル。やっぱり今回も常宿にface02

石巻へ。



石巻の夕食は居酒屋さんで。ビールで喉を潤してから地酒です。
宮城県のお酒、伯楽星・三本木・山和・中新田の4種類いただきましたface05


サイボーグ009と003


石巻駅前で、ポケモンGOをONしてみると・・・
凄いことになっていましたface08


ポケモンGOによる観光力アップは賛成です。  

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:03Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2016年08月11日

    宮古市田老地区

    岩手県普代村の太田名部防潮堤・普代水門(「2016.8.11ブログ」)から宮古市の田老地区に向かいます。



    今まで田老に二度来たことがありますが、今回初めて「学ぶ防災」のガイドをお願いしました。
    前日に「学ぶ防災ガイド」に電話をして、朝一番の9時に予約をしました。

    9時 田老駅前駐車場でガイドさんと待ち合わせです。


    ガイドは小幡実さん。
    田老で生まれ育ったお話は、半端でない説得力がありました。
    震災で体験したことをありのままに伝える姿勢に感銘しました。



    <小幡実さんのお話>

    田老地区は、放射状に道路が整備され、40か所以上の避難場所がありました。津波が来るまで45分の時間がありましたが、181名の人が亡くなりました。

    原因としては地震後に停電が起こり、なぜか防災無線が不通になって津波警報が届かなかったこと。そして、防潮堤があるので安心していたということもあります。日本で一番の防潮堤があった。そのことで逆に、「逃げる」という気持ちが足りなかったのです。
    防潮堤で、まったく第一波が見えませんでした。一旦高台に逃げたのに、家に戻って津波に巻き込まれた方も多いのです。

    防潮堤の役割とは何だったのか。
    ひとつは「防潮堤が少しでも波を抑えている間に逃げる」ということでした。そして、津波後に防潮堤が決壊したところは財産もご遺体もなくなりましたが、防潮堤が残った内側はがれきやご遺体が残りました。
    内と外では全然様子が違います。また、田老のがれきの特徴は2階が残っている建物が多いということです。防潮堤を乗り越えた波がすべるように押し寄せ、だるま落としのように1階部分を破壊しましたが、2階部分は残りました。防潮堤にはそんな役割もありました。しかし、防潮堤があってよかったのか、という気持ちもあります。

    私たちのプログラムでは実際に映像をとった場所で、実際に起きた映像を見ていただいて、景色と比較してもらいます。映像は「たろう観光ホテル」の社長さんが当日このホテルの屋上から撮影したものです。
    社長さんも、そんなに大きな津波は来ないだろうと思っていました。停電前に「3mの津波」と情報が入っていたのを聞いていたからです。でも実際は3階まで津波が到達し、2階までは骨組みだけになりました。

    宮古では震災語り部ではなく、自分たちを「防災ガイド」と言っています。参加していただいて、大切な人といっしょに動くためにはどうしたらいいか、命の大切さ、考えていただくためのガイドです。



    第1防潮堤 


    第2防潮堤


    第3防潮堤


    震災前後の防潮堤(「学ぶ防災」配布資料より)




    防災無線と避難路



    漁港内にあるJFたろう製氷貯氷施設の壁面に津波の水位が表示されています。
    下から「昭和 10m」「明治 15m」とあり、「平成」は何と17.3mです。




    たろう観光ホテル
    震災遺構に決定した「たろう観光ホテル」は2016年4月より一般公開されています。
    内部への立ち入りも出来るようになり、6階では津波襲来のDVDも上映します。

    建物を外から見るだけでも自然災害の恐ろしさを実感することができます。
    東日本大震災の津波の高さと、その津波の威力が一目で分かる建物でもあるので、震災遺構として被害の状況を後世に伝えることができる貴重な建物です。






    建物内に入ります。1階のエレベーターシャフトがつぶれています。




    ホテルの斜め前に小幡さんの民宿があったそうです。小幡さんは高台の駐車場まで逃げて助かったものの、戻ってみると民宿は跡形も無かったそうです。



    6階



    ホテルのオーナーが撮影した部屋で、津波の映像を見ました。


    マスコミ未公開の映像で、津波が港の中に重なり合いながら入ってきて高さが増していく様子が分かる貴重な映像です。


    6階からの眺め。津波が襲ったとは信じられません。


    小幡さんの「助かるか助からないかは最後は本人が決める」との言葉は一生忘れないでしょう。



    田老第一小学校にある大海嘯記念碑
    1933年(昭和8年)の昭和大津波の後に建立されました。


    碑文
    一、大地震の後には津波が来る
    一、地震があったら此処に来て一時間我慢せ
    一、津波に襲われたら何処でもこの位に高所へ逃げろ
    一、遠くへ逃げては津波に追付かる
    一、常に近くの高い所を用意して置け



    田老総合事務所(旧田老町役場)





    移転が進む高台三王団地  





    小幡さんが是非寄ってみてと言うので、三王岩を訪ねました。東日本大震災の被害で遊歩道は途中まででしたが、なかなかの景観でした。


    向かって左から女岩、男岩、太鼓岩。
    ジオパークのジオサイトにもなっている一億一千万年もの歳月をかけて造られた自然の芸術です。


    小幡さんが逃げてきた三王岩駐車場




    道の駅たろうの完成予想図。


    コンビニで飲み物を買って、陸前高田に移動です。

      

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:01Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所

    2016年08月11日

    岩手県普代村 太田名部防潮堤・普代水門

    今日で、東日本大震災から5年と5ヶ月が経ちました。

    5時 防潮堤と水門が東日本大震災の津波から住民を守った岩手県普代村(ふだいむら)の日の出です。



    7時 国民宿舎くろさき荘を出発。



    NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」『大津波から村を守れ!~三陸海岸の村長の決断~』で取り上げられた明治三陸津波石碑、太田名部防潮堤、普代水門に向かいます。




    津波の被災地を車で移動している時は、地震による津波への備えとして、二つのことが大切です。
    ひとつ目は、津波浸水想定区域にいるかいないか、常に認識していることです。


    二つ目は、地震は何時起きるか分からないので、常に地元のラジオ局を聞いていることです。ちなみに、写真のIBCラジオは岩手放送。




    1896年(明治29年)6月15日に発生した明治三陸大津波で、普代村太田名部の犠牲者は、人口267名中196名にも及んだと言われています。
    NHK「英雄たちの選択」で、司会の磯田道史さんが紹介した明治三陸地震津波の石碑を訪ねました。(写真:NHK「英雄たちの選択」)


    碑文に74歳の祖父から3歳の妹まで3代にわたって一家8名が亡くなったとあります。
    津波の悲惨さが伝わって来ます。






    7時20分 岩手県普代村の太田名部(おおたなべ)防潮堤に着きました。



    防潮堤上部から。左側が住宅地区、右側が漁港。



    普代村は、明治三陸大津波で302人、昭和三陸大津波で137人の犠牲者を出しました。

    防潮堤は、高さ15.5m、全長155m。
    県が総工費5,800万円をかけて1967年(昭和42年)に完成しました。

    高さは「万里の長城」と呼ばれた宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10m)を大きく上回ります。
    当時の和村幸得(わむら こうとく)村長は、「明治に15mの波が来た」という言い伝えから「15m以上」にこだわりました。

    建設に対する反発は大きく、「(金を)他のことに使えばいい」「ここまでの高さは必要なのか」との異論が出ましたが、和村村長が揺るがぬ信念で反対する住民を粘り強く説得。
    地主の中にもどうしても承諾できない人がいましたが、村長は「二度あることは三度あってはいかん」と決して譲らず、県にひたすら嘆願し、土地収用(公共事業のために必要な土地を所有者から強制的に取得すること)もからめ、事業認定をかけてまで強行しました。


    襲った津波の高さは11.6m。


    防潮堤が約100世帯の住民の命と財産を守りました。




    テレビ朝日「サンデースクランブル〜村を救った15mの防潮堤・秘話」(YouTube)







    7時40分 普代(ふだい)水門に到着。



    普代川の河口から約300mに位置し、高さ15.5m・幅205mのコンクリート製の水門で、35億6,000万円をかけて1984年(昭和59年)に完成。
    太田名部防潮堤と合わせた総工費約36億円は、県の事業として国・県の負担で行われました。


    津波の高さは23.6m。



    普代水門の説明板。


    (説明文)
    和村幸得元村長は、戦後の民選で村長に初当選し、10期40年という長きにわたり普代村のトップとして村の発展に尽力しました。昭和8年の津波を経験した元村長は、明治29年の津波で記録された15.2メートルの高さにこだわりました。財源や土地の活用に国からも村民からも反対の声が上がりましたが、「二度あったことは、三度あってはならない」と反対の声を説得し、高さ15.5メートルの普代水門と太田名部防潮堤を実現させました。
    2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震では、津波による浸水を最小限に食い止め、村内の人的被害を死者0、行方不明者1に抑え、「奇跡の水門」と呼ばれ注目を集めました。
    ただし実際には到達した津波は高さ約20mで水門を越えており、県道にかかる水門の陸甲(扉)が余震で緊急停止し、間一髪手動で閉めた経緯もあり、より素早く高台に避難することこそが重要であることを忘れてはなりません。


    当日の津波映像がスマートフォンで見られるようになっていました。



    和村・元村長の顕彰碑。碑文は「二度あったことは、三度あってはならない」。



    一方、震災当日の消防士の献身的な行動があったことも忘れてはなりません。

    東日本大震災発生後、水門脇の県道にかかる陸閘(りっこう)ゲートの閉門を遠隔操作により行っていましたが、途中で停電により緊急停止してしまいました。
    そこで、久慈消防署普代分署の立臼勝・副分署長ら消防士3人が大津波警報の出る中、ゲートに向かいました。
    水門最上部の機械室で手動スイッチを使い陸閘ゲートを閉鎖。その直後に津波が到達したのです。

    普代水門と陸閘ゲート


    立臼勝・副分署長と水門機械室の手動スイッチ(写真:テレビ朝日「サンデースクランブル〜村を救った15mの防潮堤・秘話」」より)



    津波は到達時に水門を越えたものの、水門が威力を弱め、防潮林が押さえこんだため、水門から約200m上流付近で止まりました。(写真:NHK「英雄たちの選択」)




    もちろん、水門や防潮堤は万全ではありません。
    津波がより長い時間水門を越えていたり、より高い津波が来襲していたりした場合には、耐えきれず決壊した可能性も指摘されています。

    しかし、、和村村長が執念で造った普代水門と太田名部防潮堤が住宅地や集落中心部への津波到達を防いだため、普代村における震災の人的被害は船の様子を見るため防潮堤の外に出た行方不明者1人のみで、死者がゼロであったこと。
    防潮堤の外側にあった漁業施設は壊滅的だったものの、津波からの被害を最小限に抑えたことは事実なのです。(写真:GoogleMapを編集)


    明治三陸地震と東日本大震災の津波浸水域の比較(写真:普代水門・説明板より)




    和村幸得(わむら こうとく)さんは、1987年の村長退任の挨拶の際、「村民のためと確信をもって始めた仕事は反対があっても説得をしてやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産です」と語りました。



    和村さんは、水門が完成した3年後に村長を退き、東日本大震災の14年前、1997年(平成9年)に亡くなりました。
    享年88歳でした。

    ちなみに和村さんの誕生日は2月21日(私は2月22日)。
    盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)から慶應義塾大学に進みましたが、健康を害して中退しています(私は慶応大学法学部政治学科中退)。
    「1日違いの誕生日」と「慶応大学中退」に少し縁を感じます。



    参照:和村幸得 - Wikipedia普代水門 - Wikipedia岩手県普代村は浸水被害ゼロ、水門が効果を発揮 (日本経済新聞)死者ゼロの岩手・普代村を守ったのは… 2人の「ヒーロー」(MSN産経)普代守った巨大水門 被害を最小限に(岩手日報)15メートル堤防・水門 村救う(読売新聞)普代水門とは(東京建設コンサルタント)津波石碑一覧シート - 国土交通省 東北地方整備局
      

  • Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:01Comments(0)今日の出来事東日本大震災・味スタ避難所