2013年08月15日
東日本大震災被災地訪問①「名取市閖上地区」
今日、明日の2日間で、かみさんと娘を連れて東日本大震災の被災地に行ってきます。
被災地に行くのは、私は12回目。
①「支援物資搬送」2011.3/27ブログ、3/28ブログ、3/29ブログ、
②「支援物資搬送&現地調査」5/25ブログ、5/26ブログ、
③「支援物資搬送&現地調査」6/27ブログ、6/28ブログ、
④「『思い出の宝物プロジェクト』第1弾」7/18ブログ、7/19ブログ、7/20ブログ、7/21ブログ、
⑤「『思い出の宝物プロジェクト』第2弾」8/17ブログ、8/18ブログ、8/19ブログ、
⑥「支援物資搬送&今後の打ち合わせ」10/29ブログ、10/30ブログ、
⑦「クリスマス&お正月プレゼント」12/22ブログ、12/23ブログ、
⑧「支援物資搬送&『全国絆タウン46 第1弾・千葉県の日』視察」2012.2/11ブログ 、 2/12ブログ、
⑨「支援物資搬送&『全国絆タウン46 第2弾・調布市の日』実施」2/25ブログ、2/26ブログ、
⑩「調布から!行こう石巻・女川」2013.2/9ブログ、2/10ブログ、2/11ブログ、
⑪「被災地訪問#1」7/21ブログ、7/22ブログ、7/23ブログ。
娘は「思い出の宝物プロジェクト第2弾」以来2回目。
かみさんは初めて。
「思い出の宝物プロジェクト第2弾」で一緒に行った息子は、仕事で日程が合わず、今回は断念。
どこまで、行けるかわかりませんが、下記の場所を中心に訪ねたいと思っています。
名取市閖上地区①閖上中、閖上小、閖上公民館跡地②閖上の記憶③かまぼこ佐々直、ゆりあげ港朝市
石巻市①門脇・南浜地区、門脇小②雄勝町、大川小
女川町①町立病院、女川交番、女川サプリメント、江島共済会館
南三陸町①防災対策庁舎②高野会館③志津川小
気仙沼市①第18共徳丸
陸前高田市①奇跡の一本松、道の駅高田松原②市役所旧庁舎、市民会館③下宿定住促進住宅
釜石市①鵜住居地区防災センター、釜石東中学校、鵜住居小学校
3時50分 自宅を出発します。
国見サービスエリアで朝食・休憩。
先月被災地に行った時のブログを印刷してきました。
前回名取市閖上地区に行った時のブログ(2013.7/23ブログ)を娘に読ませているところ。
名取市閖上(ゆりあげ)地区に着きました。
まず、閖上地区唯一の高台、高さ6.3mの「日和山(ひよりやま)」へ。
日和山は、大正9年、船の出入り、気象などを見るために「在郷軍人分会」が声を上げて発起され、多くの人々の勤労奉仕によって作られた人工の小山です。
山頂には湊神社から遷座された富主姫神社の社殿と忠魂碑が建立されました(写真:ゆりあげざっこ写友会『むかしの写真集 閖上』より)。
日和山の頂上にもがれきが押し寄せ、富主姫神社も消滅しました(写真:「被災地閖上の日和山を訪れる人の安全のため階段に手すりを!」より)。左写真:屋根は神社の社殿ではなく、津波で押し上げられた民家の屋根。
2013年5月5日、富主姫神社と閖上湊神社の「合わせ神社」として再興されました。
お社の内部には、犠牲者のお名前が記され、祀られています。
山頂には、「大東亜戦 戦死者氏名」の石碑がありました。
折しもこの日は終戦記念日。
今日の繁栄が、戦陣に散り戦禍に倒れた数多くの方々の尊い犠牲を礎としてもたらされていることを、私たちは決して忘れてはならないと思います。
日和山の北側に「震嘯記念 地震があったら津波の用心」の石碑が倒れていました。
昭和三陸津波の教訓として先人が建立したものです。
登り口近くに建てられていたそうです。(写真:東日本大震災「写真保存プロジェクト」より)
震嘯記念 地震があったら津浪の用心
昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震あり
鎮静後約四十分にして異常の音響と共に怒濤澎湃し来たり 水嵩十尺名取川を遡上して 西は猿猴圍 南は貞山堀廣浦江一帯に氾濫せり 浸水家屋二十餘戸
名取川町裏沿岸に在りし三十噸級の発動機漁舩数艘は柳原圍の畑地に押し上げられ 小艇の破砕せられたるもの尠なからざりしも 幸い人畜には死傷なかりき
縣内桃生牡鹿本吉の各郡及び岩手青森両縣地方の被害甚大なりしに比し 輕少なりしは 震源地の遠く金華山の東北東約百五十里の沖合に在りて 濤勢牡鹿半島に遮断せられ その餘波の襲来に過ぎざりしと 河口の洲丘及び築堤の之を阻止したるとに因るなり
震災の報一度天聽に達するや 畏くも天皇皇后両陛下より御救恤として御内帑金を御下賜せらる
聖恩の宏大なること洵に恐懼感激に禁へざるところなり
惟うに天災地変は人力の予知し難きものなるを以って 緊急護岸の万策を講ずべきは勿論 平素用心を怠らず変に応ずるの覚悟なかるべからず
茲に刻して以て記念とす
昭和八年十一月三日
娘が絵馬をかけました。
閖上公民館跡地。
公民館は既に解体され、「閖上地区宅地嵩上げ等現地確認場」になっていました。
閖上公民館は海岸線から1キロ強の距離にあります。
「働く婦人の家」と棟続きで、共に鉄筋コンクリート2階建て。
午前中、閖上中学校では卒業式が行われ、午後からは公民館で謝恩会が開かれていました。
2時46分。
激しく長い揺れに「これはただ事ではない」とみんなが思いましたが、公民館も指定避難場所なので、そのままそこで待機する人もいれば、家に戻る人、閖上中に避難する人、様々でした。
ところが、公民館に避難していた人々が突如閖上中に避難するよう誘導され、指示に従って移動していたところを津波が襲ったのです。
公民館から中学校へ向かった人の多くが途中で津波にのまれてしまいました。
結果的には、公民館の1階は被災しましたが、2階に逃げた38名は全員助かりました。
(写真:「閖上を襲った大津波の証言」より)
公民館跡地から見た閖上中学校。
閖上中学校へ。
校庭側
この日は午前中に卒業式が行われました。
教室の黒板には、卒業生のものと思われる様々なメッセージが書かれていました。
一方、黒板には津波の跡が・・・
動画:閖上中学校からみた津波(YouTube)
閖上中学校の入り口に「閖上の記憶」と名付けられたプレハブの建物がありました。
閖上中学校遺族会が建立した慰霊碑の清掃、お花の整理、千羽鶴の保管、記帳など慰霊碑を守る「社務所」、そして「記帳所」が欲しいという遺族の声が開所のきっかけとなり、公益社団法人 日本国際民間協力会(NICCO)と特定非営利活動法人 地球のステージが共同で開所し運営しています。
「閖上の記憶」には、閖上に立ち寄った人が休憩を取りおしゃべりをする場所としての機能もあります。
被災した子どもたちが粘土で制作したジオラマが展示されていました。
「震災前の私たちの街」
閖上中と閖上公民館
「あの日覚えている光景」。右写真・真ん中の作品は「日和山」だと思われます。
「未来の私たちの町」
左:屋上からヘリコプターで避難できる閖上タワー。右:津波の水を飲むロボット「水ワンコ」と、津波から港を守る30mの防波堤。
記帳ノートにあった被災者のメッセージ。
娘のメッセージ
震災前の閖上の航空写真パネル。自分の家を探しに来る方が少ないそうです。思い出を書いた付箋がいっぱい貼ってありました。
初めて閖上小学校へ。
震災発生後、閖上小では、大津波警報が発表されたため、児童を校舎の3階に避難させていました。
子どもを迎えにきた保護者も一緒に避難することに。
学校も停電し、防災無線も聞こえませんでした。
集まった親たちの情報源は、ラジオと携帯電話のワンセグだけでした。
地震発生直後、気象庁は津波第1波到達予想時刻を午後3時と発表していました。
しかし3時30分を過ぎても津波がくる様子がなかったため、教師や保護者の間に、ここには津波は来ないという安堵感が広がり始めます。
大津波警報が解除されていなかったのにも関わらず、津波は来ないと判断し、児童や保護者、100名以上の親子が体育館へと降り始めました。
実は、津波は気象庁の予想した午後3時には宮城県北部に到達し、仙台湾に面した名取市に向かっていました。
津波が名取市に到達したのは、子どもたちが体育館への移動を終えた頃でした。
地震発生から1時間あまり、津波は小学校の校庭に迫りました
その時、たまたま校舎の2階に残っていた1人の保護者が学校に迫ってくる津波に気がつきました。
体育館に駆け降り、「津波だ、逃げろ-」と叫びました。
児童や保護者は屋上へ必死に避難。
直後に校庭から校舎1階や体育館へ津波が流れ込んだそうです。
閖上小は「校地内立ち入り禁止」でした。
日和山の斜め前にある東北復興支援販売店。
建物入り口に「名取復興支援協会・ボランティア受付事務所」の看板がありました。
お店の人に聞いてみると、閖上地区周辺の雑草取りや花を植えるボランティアだそうです。
私たちが店内にいる間にもボランティア希望者が何人か訪ねてきました。
「ゆりあげ復興支援」ボランティアはこちら
水産食品製造・販売業の「佐々直」本店社屋が、被災当時の姿でたたずんでいました。
市が費用を負担する被災建築物の撤去期間はすでに終了しましたが、「後世に震災の被害を伝えたい」という佐々木直哉社長の強い思いのもと、現在まで保存が続けられているそうです。
社屋にあったメッセージ
「なとり復興桜プロジェクト」とは、津波で壊滅的被害を受けた、名取市閖上地区の復興のため、3,000本の桜の苗木を植えて、新たな観光名所として街づくりを進める計画です。
桜の苗木は、津波で多くの人が亡くなった閖上地区で津波をかぶりながらも震災後に花を咲かせた桜の木から芽をとって、苗木を育てています。
・「なとり復興桜プロジェクト」Facebook
ゆりあげ港朝市は今回も空振り お盆特別市を8月11〜13日まで行っていました。次回は8月18日。
<参照>
・閖上の記憶
・イーゴンの徒然
・日本国際民間協力会「名取市での心のケア"名取市立閖上中学校平成22年度卒業生のつどい"」
・NHKスペシャル「巨大津波 “いのち”をどう守るのか」
・日本国際民間協力会「閖上中学校遺族会」
・地球のステージブログ「閖上小中学校遺族会発足」
・公民館から中学校への避難があだに“閖上の悲劇”を生んだ「避難誘導」の謎(ダイヤモンド・オンライン)
・「閖上の記憶」増築記念式典 開催のご案内(MSN産経ニュース)
・日星高等学校blog「閖上小学校」
・東日本大震災11か月目 仙台平野と閖上の日和山 東日本大震災に遭遇して36
・なとり100選「31.日和山」
・被災地閖上の日和山を訪れる人の安全のため階段に手すりを!(READY FOR? )
・仙台市と名取市の津波被災地を訪ねて想う(働き方ネット大阪)
・証言/避難者大混乱、名取・閖上公民館/誘導あだ 多数の犠牲者(河北新報社)
・粘土の行方(地球のステージ)
・名取市閖上 今も津波の匂いの記憶が!~語り部の活動始まる(震災日誌in仙台)
・「かまぼこ佐々直」(みやぎ観光復興支援センター スタッフブログ)
・動画「閖上360度」(YouTube)
・動画「"東日本大震災"平成23年3月11-12日 名取市閖上」(YouTube)
・動画「名取市閖上地区 2011年4月3日」(YouTube)
・動画「名取市 ゆりあげ小学校・4」(YouTube)
・動画「【震災から半年】閖上・日和山の祈り」(YOMIURI ONLINE)
石巻市に向かいます。
被災地に行くのは、私は12回目。
①「支援物資搬送」2011.3/27ブログ、3/28ブログ、3/29ブログ、
②「支援物資搬送&現地調査」5/25ブログ、5/26ブログ、
③「支援物資搬送&現地調査」6/27ブログ、6/28ブログ、
④「『思い出の宝物プロジェクト』第1弾」7/18ブログ、7/19ブログ、7/20ブログ、7/21ブログ、
⑤「『思い出の宝物プロジェクト』第2弾」8/17ブログ、8/18ブログ、8/19ブログ、
⑥「支援物資搬送&今後の打ち合わせ」10/29ブログ、10/30ブログ、
⑦「クリスマス&お正月プレゼント」12/22ブログ、12/23ブログ、
⑧「支援物資搬送&『全国絆タウン46 第1弾・千葉県の日』視察」2012.2/11ブログ 、 2/12ブログ、
⑨「支援物資搬送&『全国絆タウン46 第2弾・調布市の日』実施」2/25ブログ、2/26ブログ、
⑩「調布から!行こう石巻・女川」2013.2/9ブログ、2/10ブログ、2/11ブログ、
⑪「被災地訪問#1」7/21ブログ、7/22ブログ、7/23ブログ。
娘は「思い出の宝物プロジェクト第2弾」以来2回目。
かみさんは初めて。
「思い出の宝物プロジェクト第2弾」で一緒に行った息子は、仕事で日程が合わず、今回は断念。
どこまで、行けるかわかりませんが、下記の場所を中心に訪ねたいと思っています。
名取市閖上地区①閖上中、閖上小、閖上公民館跡地②閖上の記憶③かまぼこ佐々直、ゆりあげ港朝市
石巻市①門脇・南浜地区、門脇小②雄勝町、大川小
女川町①町立病院、女川交番、女川サプリメント、江島共済会館
南三陸町①防災対策庁舎②高野会館③志津川小
気仙沼市①第18共徳丸
陸前高田市①奇跡の一本松、道の駅高田松原②市役所旧庁舎、市民会館③下宿定住促進住宅
釜石市①鵜住居地区防災センター、釜石東中学校、鵜住居小学校
3時50分 自宅を出発します。
国見サービスエリアで朝食・休憩。
先月被災地に行った時のブログを印刷してきました。
前回名取市閖上地区に行った時のブログ(2013.7/23ブログ)を娘に読ませているところ。
名取市閖上(ゆりあげ)地区に着きました。
まず、閖上地区唯一の高台、高さ6.3mの「日和山(ひよりやま)」へ。
日和山は、大正9年、船の出入り、気象などを見るために「在郷軍人分会」が声を上げて発起され、多くの人々の勤労奉仕によって作られた人工の小山です。
山頂には湊神社から遷座された富主姫神社の社殿と忠魂碑が建立されました(写真:ゆりあげざっこ写友会『むかしの写真集 閖上』より)。
日和山の頂上にもがれきが押し寄せ、富主姫神社も消滅しました(写真:「被災地閖上の日和山を訪れる人の安全のため階段に手すりを!」より)。左写真:屋根は神社の社殿ではなく、津波で押し上げられた民家の屋根。
2013年5月5日、富主姫神社と閖上湊神社の「合わせ神社」として再興されました。
お社の内部には、犠牲者のお名前が記され、祀られています。
山頂には、「大東亜戦 戦死者氏名」の石碑がありました。
折しもこの日は終戦記念日。
今日の繁栄が、戦陣に散り戦禍に倒れた数多くの方々の尊い犠牲を礎としてもたらされていることを、私たちは決して忘れてはならないと思います。
日和山の北側に「震嘯記念 地震があったら津波の用心」の石碑が倒れていました。
昭和三陸津波の教訓として先人が建立したものです。
登り口近くに建てられていたそうです。(写真:東日本大震災「写真保存プロジェクト」より)
震嘯記念 地震があったら津浪の用心
昭和八年三月三日午前二時三十分突如強震あり
鎮静後約四十分にして異常の音響と共に怒濤澎湃し来たり 水嵩十尺名取川を遡上して 西は猿猴圍 南は貞山堀廣浦江一帯に氾濫せり 浸水家屋二十餘戸
名取川町裏沿岸に在りし三十噸級の発動機漁舩数艘は柳原圍の畑地に押し上げられ 小艇の破砕せられたるもの尠なからざりしも 幸い人畜には死傷なかりき
縣内桃生牡鹿本吉の各郡及び岩手青森両縣地方の被害甚大なりしに比し 輕少なりしは 震源地の遠く金華山の東北東約百五十里の沖合に在りて 濤勢牡鹿半島に遮断せられ その餘波の襲来に過ぎざりしと 河口の洲丘及び築堤の之を阻止したるとに因るなり
震災の報一度天聽に達するや 畏くも天皇皇后両陛下より御救恤として御内帑金を御下賜せらる
聖恩の宏大なること洵に恐懼感激に禁へざるところなり
惟うに天災地変は人力の予知し難きものなるを以って 緊急護岸の万策を講ずべきは勿論 平素用心を怠らず変に応ずるの覚悟なかるべからず
茲に刻して以て記念とす
昭和八年十一月三日
娘が絵馬をかけました。
閖上公民館跡地。
公民館は既に解体され、「閖上地区宅地嵩上げ等現地確認場」になっていました。
閖上公民館は海岸線から1キロ強の距離にあります。
「働く婦人の家」と棟続きで、共に鉄筋コンクリート2階建て。
午前中、閖上中学校では卒業式が行われ、午後からは公民館で謝恩会が開かれていました。
2時46分。
激しく長い揺れに「これはただ事ではない」とみんなが思いましたが、公民館も指定避難場所なので、そのままそこで待機する人もいれば、家に戻る人、閖上中に避難する人、様々でした。
ところが、公民館に避難していた人々が突如閖上中に避難するよう誘導され、指示に従って移動していたところを津波が襲ったのです。
公民館から中学校へ向かった人の多くが途中で津波にのまれてしまいました。
結果的には、公民館の1階は被災しましたが、2階に逃げた38名は全員助かりました。
(写真:「閖上を襲った大津波の証言」より)
公民館跡地から見た閖上中学校。
閖上中学校へ。
校庭側
この日は午前中に卒業式が行われました。
教室の黒板には、卒業生のものと思われる様々なメッセージが書かれていました。
一方、黒板には津波の跡が・・・
動画:閖上中学校からみた津波(YouTube)
閖上中学校の入り口に「閖上の記憶」と名付けられたプレハブの建物がありました。
閖上中学校遺族会が建立した慰霊碑の清掃、お花の整理、千羽鶴の保管、記帳など慰霊碑を守る「社務所」、そして「記帳所」が欲しいという遺族の声が開所のきっかけとなり、公益社団法人 日本国際民間協力会(NICCO)と特定非営利活動法人 地球のステージが共同で開所し運営しています。
「閖上の記憶」には、閖上に立ち寄った人が休憩を取りおしゃべりをする場所としての機能もあります。
被災した子どもたちが粘土で制作したジオラマが展示されていました。
「震災前の私たちの街」
閖上中と閖上公民館
「あの日覚えている光景」。右写真・真ん中の作品は「日和山」だと思われます。
「未来の私たちの町」
左:屋上からヘリコプターで避難できる閖上タワー。右:津波の水を飲むロボット「水ワンコ」と、津波から港を守る30mの防波堤。
記帳ノートにあった被災者のメッセージ。
娘のメッセージ
震災前の閖上の航空写真パネル。自分の家を探しに来る方が少ないそうです。思い出を書いた付箋がいっぱい貼ってありました。
初めて閖上小学校へ。
震災発生後、閖上小では、大津波警報が発表されたため、児童を校舎の3階に避難させていました。
子どもを迎えにきた保護者も一緒に避難することに。
学校も停電し、防災無線も聞こえませんでした。
集まった親たちの情報源は、ラジオと携帯電話のワンセグだけでした。
地震発生直後、気象庁は津波第1波到達予想時刻を午後3時と発表していました。
しかし3時30分を過ぎても津波がくる様子がなかったため、教師や保護者の間に、ここには津波は来ないという安堵感が広がり始めます。
大津波警報が解除されていなかったのにも関わらず、津波は来ないと判断し、児童や保護者、100名以上の親子が体育館へと降り始めました。
実は、津波は気象庁の予想した午後3時には宮城県北部に到達し、仙台湾に面した名取市に向かっていました。
津波が名取市に到達したのは、子どもたちが体育館への移動を終えた頃でした。
地震発生から1時間あまり、津波は小学校の校庭に迫りました
その時、たまたま校舎の2階に残っていた1人の保護者が学校に迫ってくる津波に気がつきました。
体育館に駆け降り、「津波だ、逃げろ-」と叫びました。
児童や保護者は屋上へ必死に避難。
直後に校庭から校舎1階や体育館へ津波が流れ込んだそうです。
閖上小は「校地内立ち入り禁止」でした。
日和山の斜め前にある東北復興支援販売店。
建物入り口に「名取復興支援協会・ボランティア受付事務所」の看板がありました。
お店の人に聞いてみると、閖上地区周辺の雑草取りや花を植えるボランティアだそうです。
私たちが店内にいる間にもボランティア希望者が何人か訪ねてきました。
「ゆりあげ復興支援」ボランティアはこちら
水産食品製造・販売業の「佐々直」本店社屋が、被災当時の姿でたたずんでいました。
市が費用を負担する被災建築物の撤去期間はすでに終了しましたが、「後世に震災の被害を伝えたい」という佐々木直哉社長の強い思いのもと、現在まで保存が続けられているそうです。
社屋にあったメッセージ
「なとり復興桜プロジェクト」とは、津波で壊滅的被害を受けた、名取市閖上地区の復興のため、3,000本の桜の苗木を植えて、新たな観光名所として街づくりを進める計画です。
桜の苗木は、津波で多くの人が亡くなった閖上地区で津波をかぶりながらも震災後に花を咲かせた桜の木から芽をとって、苗木を育てています。
・「なとり復興桜プロジェクト」Facebook
ゆりあげ港朝市は今回も空振り お盆特別市を8月11〜13日まで行っていました。次回は8月18日。
<参照>
・閖上の記憶
・イーゴンの徒然
・日本国際民間協力会「名取市での心のケア"名取市立閖上中学校平成22年度卒業生のつどい"」
・NHKスペシャル「巨大津波 “いのち”をどう守るのか」
・日本国際民間協力会「閖上中学校遺族会」
・地球のステージブログ「閖上小中学校遺族会発足」
・公民館から中学校への避難があだに“閖上の悲劇”を生んだ「避難誘導」の謎(ダイヤモンド・オンライン)
・「閖上の記憶」増築記念式典 開催のご案内(MSN産経ニュース)
・日星高等学校blog「閖上小学校」
・東日本大震災11か月目 仙台平野と閖上の日和山 東日本大震災に遭遇して36
・なとり100選「31.日和山」
・被災地閖上の日和山を訪れる人の安全のため階段に手すりを!(READY FOR? )
・仙台市と名取市の津波被災地を訪ねて想う(働き方ネット大阪)
・証言/避難者大混乱、名取・閖上公民館/誘導あだ 多数の犠牲者(河北新報社)
・粘土の行方(地球のステージ)
・名取市閖上 今も津波の匂いの記憶が!~語り部の活動始まる(震災日誌in仙台)
・「かまぼこ佐々直」(みやぎ観光復興支援センター スタッフブログ)
・動画「閖上360度」(YouTube)
・動画「"東日本大震災"平成23年3月11-12日 名取市閖上」(YouTube)
・動画「名取市閖上地区 2011年4月3日」(YouTube)
・動画「名取市 ゆりあげ小学校・4」(YouTube)
・動画「【震災から半年】閖上・日和山の祈り」(YOMIURI ONLINE)
石巻市に向かいます。
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