阪神・淡路大震災から28年

大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ)

2023年01月17日 08:00

6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から28年が経ちました。

(NHK「おはよう日本」より)




地震が発生してから10日後、支援物資を届ける調布青年会議所の先遣隊として、神戸市・芦屋市・西宮市の避難所を訪ねました。

崩壊した建物、焼け落ちた商店街、倒壊した高速道路など被災地の惨状は想像を絶するものでした。
目のあたりにした光景は記憶に焼き付き、今でも時々フラッシュバックして夜中に目が覚めることがあります。

あの時のことを思い出し、改めて見つめ直したいと思います。


1995年(平成7年)1月17日の朝、テレビの緊急ニュースを見て、愕然としました。
阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の被災地に、かつて活動していた神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市が含まれていたからです。


私は1981年頃から関東リサイクル運動市民の会(本部:渋谷区)で家庭の不要品のリサイクル運動をしていました。

1984年頃、関西リサイクル運動市民の会(本部:大阪市)との交流で、京阪神地域で活動することになりました。
関西リサイクル運動市民の会のスタッフとして約1年半、大阪市北区東天満のアパートで暮らしながら、スーパーの屋上や駐車場でのフリーマーケットを手伝ったり、家庭の不要品売ります・買います情報を掲載した「月刊リサイクルニュース」を阪急・阪神・JR線を使って書店に直接届けたりしていました。

毎月、神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市を訪れていたのです。


そこが被災地でした。

当時のリサイクル運動の仲間や、納本していた本屋さん、お世話になっていた食べ物屋・飲み屋のご主人や店員さんはどうなってしまったんだろう。

その日からほとんど眠れない日々が続きました。
かと言って何もできずに、昼も夜も一日中、テレビの前でひたすらニュースを見続けていました。


数日後、調布青年会議所が支援活動を行うことが決まった時、迷わず手を挙げました。

渉外担当になり、神戸市・西宮市など被災地の市役所に電話をしてみました。

返事は・・・
「支援はとってもありがたいのですが、混乱していて対応できないので、直接避難所に届けてください」とのことでした。


でも、避難所の名前も場所もわかりません。

そこで、私と狩野明彦さん(現:調布市議会議員)の2名が先遣隊として現地に入り、避難所を直接訪ね、場所や支援物資など必要な情報を調布の本部に連絡することになったのです。


1月27日の夜、羽田空港を出発しました。
伊丹空港が閉鎖中だったので、23時頃、関西国際空港(大阪府泉佐野市)に到着しました。

空港から神戸まで直行ジェットフェリーが出ていると聞いていましたが、欠航していたので、急遽タクシーで向かうことになりました。

タクシー乗り場に向かう途中、私たちが大きな荷物を持ち青年会議所の腕章をしていたからでしょうか。
十数メートル離れたところに立っていた女性が大きな声で「ボランティアのお兄ちゃんかい。頑張ってや!」と声をかけてくれました。

その声は耳に残り、今でも災害が起きると頭の中で響き、支援の原動力となっています。


タクシーは大阪湾に沿って一般道を暫く進んだものの、尼崎市の甲子園球場の手前で大渋滞。
車はまったく動かなくなってしまいました。

そこからはタクシーを降り、狩野さんの提案で持参した折りたたみ自転車を組み立てて、自転車での移動になりました。

とは言うものの、被災地は停電していて真っ暗。
灯りは道路を走る車のヘッドライトだけという異様な状況でした。

阪神間を結ぶ二つの幹線道路のひとつ、国道43号線の歩道を走りましたが、時々歩道部分に電柱や住宅が倒壊していて通れず生活道路に迂回します。
生活道路は車が走っていないので暗闇です。
倒壊物、裂け目や段差を避けながら、自転車のライトだけを頼りに走りました。


28日3時頃、数日前に現地に入り支援活動を行っていた調布市職員災害ボランティアクラブの宿泊場所となっていた神戸市の福祉施設にようやく到着し、仮眠しました。


8時頃、折りたたみ自転車に乗り、現地調査を開始します。

明るくなった被災地を見ると、被害の大きさに愕然としました。
倒壊している木造住宅、破壊されている鉄筋コンクリートの建物。
映画でしか見たことのない戦場の様な焼け野原、あちらこちらで聞こえるパトカーと消防車のサイレン、経験したことの無い喧噪と臭い・・・

初めて目にする光景は、現実のものとは思えませんでした。


まず、開いていたコンビニで現地の地図を購入しました。
避難所の多くは小学校・中学校など公共施設と聞いていたからです。
地図を片手に、翌日支援本隊と合流するまで、西宮市、芦屋市、神戸市の避難所を廻りました。

避難所を訪ねて、支援物資の内容と数量を責任者の方と相談します。
物資が限られているからです。
避難所の名前・住所・物資・道順などを一覧表にし、調布の本部にFAXで連絡しました。


支援物資は、調布青年会議所がニュース報道の最新情報を参考に、避難所で必要とされているものを市民との協働で集めました。

自転車(88台=調布市シルバー人材センターの協力で再生したものと市民の寄贈)、ベビーカー(30台=市民の寄贈)、衣類・生活用品(子供用トレーニングウェア上95下67着・割り箸5000本・使い捨てどんぶり1600個・ウェットティッシュ60個・ゴミ袋200枚・電動三輪車1台=青年会議所寄贈)などです。


28日の夜に調布を出発したトラック3台の支援隊は29日早朝に到着し、西宮市の市役所と避難所(浜脇小学校、浜脇中学校、西宮西高校、中央図書館、香櫨園小学校)、芦屋市の避難所(宮川小学校、精道小学校、精道中学校、芦屋高校)の計10ヶ所に支援物資を届けました。




◯調布青年会議所「阪神大震災支援隊報告書」より(抜粋)





調布青年会議所「阪神大震災支援隊報告書」PDF



自転車で廻りながら見た被災地の惨状は、テレビや新聞の報道からは想像できないほど悲惨なものでした。

一方で、被災者同士が助け合う姿も数多く目にしました。

現地で見たこと、聞いたこと、感じたこと、経験したこと、独特の喧噪と臭いは、生涯忘れることはないでしょう。


(写真撮影:1995年1月28〜29日 神戸市・芦屋市・西宮市)






以後、時々被災地を訪れ、復興を見守りつつ、記録してきました。

○1995年6月

菅原市場(神戸市長田区)。『男はつらいよ』の最終作『寅次郎紅の花』のラストシーンがここで撮影されました。



○2005年3月

西宮市立浜脇小学校(支援物資を届けた学校)


芦屋市立精道小学校(支援物資を届けた学校)。NHKテレビ「忘れない…にいちゃんのランドセル」で、亡くなったお兄ちゃんが通っていた学校です。野球をしている子ども達の歓声を聞くと心からホッとします。


阪神高速神戸線倒壊地点(神戸市東灘区)


慰霊と復興のモニュメント(神戸市中央区)
平成18年に長男が調布中学校の修学旅行で訪ねた時、生徒全員で『しあわせ運べるように』を合唱し、その模様が神戸新聞に掲載されました。



新長田一番街(神戸市長田区)


JR新長田駅北側(神戸市長田区)


野島断層保存館(淡路市)



○2008年2月

味彩館Sugahara(旧菅原市場・手前中央の建物=2013.1閉店)周辺


鷹取商店街(神戸市長田区)


たかとり教会(神戸市長田区)。奇跡的に焼け残ったキリスト像


JR鷹取駅南側


慰霊と復興のモニュメント


三宮駅周辺(神戸市中央区)



○2010年10月2010.10.6ブログ

阪神高速道路震災資料保管庫


慰霊と復興のモニュメント


味彩館Sugaharaと「男はつらいよ」の『寅さんの記念碑』



○2016年10月

三宮駅前(神戸市中央区)


慰霊と復興のモニュメント




阪神・淡路大震災は私の人生に大きな影響を与えました。

災害支援にこだわるようになったのは、被災地をこの目で見たからです。
消防団に入ったのは、地域防災力の大切さを痛感したからです。


28年前の1月17日、戦後初めて都市部での大災害、100年に1度の被災規模と言われる阪神・淡路大震災に襲われました。

そして12年前の2011年には、1000年に1度と言われる驚愕的な津波災害をもたらした東日本大震災を経験しました。

首都"圏"直下地震が30年以内に起きる可能性は70%以上と言われています。
「備えあれば患えなし」。
地震が起きることを防ぐことはできませんが、被害を少なくすることはできるはずです。

100年に1度と1000年に1度の大震災がもたらした未曾有の被害を目のあたりにした私たちは、何を学び、何を学んでいないのでしょうか。
大切な何かを忘れかけていないでしょうか。

私たちができることは、学んだ教訓を忘れないできちんと伝え続けて行くことではないでしょうか。





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