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2011年08月18日

「思い出の宝物プロジェクト」2日目/大川小学校

「思い出の宝物を持ち主に返そうプロジェクト」第2弾2日目

9時30分 作業開始
朝一番の作業は、前日洗浄して乾燥させた写真の取り込みです。


取り込みながら、誰だかわかりやすい写真を選び一番上にします。その写真の上に管理伝票を置き、適した大きさの袋に入れてセロハンテープでとめます。これがそのまま展示されます。


その後、13名は昨日と同じく写真の洗浄作業に。


キャノンの齋藤さんと6名は隣の部屋で別の作業にあたります。
写真をデジタルカメラで撮影してデータ化する作業に初めて取り組みました。
私と息子はこちらを担当。詳しくは明日のブログで。


(左)昼食はコンビニで買った三陸産鮭を使ったおにぎりを食べました。
(右)「取得物展示会場」には何人か見に来ているようでした。



15時30分 作業終了

甥の野本剛史くんが仕事の関係で明日の早朝に帰るので、作業場をバックに全員で記念撮影。みんな充実した表情をしていますface02






昨日同様に被災現場視察に出かけます。
今日は、児童の7割が亡くなった大川小学校に行きます。

仙石線(仙台~石巻)の踏切。線路脇にひまわりが咲いていました。ちなみに仙石線は、変電所が被災したためディーゼル車を使って7月16日に石巻~矢本(東松島市)間で運転を再開。


途中で仮設住宅前を通りました。


北上川。ガードレールがまったくありません。右手の山の向こうが大川小。


大川小学校。山の左に北上川の水面が見えます。この川を津波が上ってきました。


校門に設置された祭壇。


モダンな校舎で有名だったそうです。




がれきが撤去され、きれいに片付いていますが、被災直後は悲惨な状況でした。

【東日本大震災パノラマ Vol.28】「大川小学校(正門付近)」(SankeiPhoto)

【東日本大震災パノラマ Vol.27】「大川小学校(2階の教室)」(SankeiPhoto)






教室の中には固定式机と白板が見えました。


スピーカーは何を呼びかけたのでしょうか。


「裏山」はすぐそこにありました。



捜索状況写真の掲示板。



上右のポスターに載っている「うみちゃん」の手紙
4月6日、大川小の近くにいた自衛隊員に女の子が手渡しました。多くの隊員がコピーを財布や手帳などに入れて持ち歩いているそうです(福井新聞4/30)。

じえいたいさんへ。
げん気ですか。
つなみのせいで、大川小学校のわたしのおともだちが
みんなしんでしまいました。
でも、じえいたいさんががんばってくれているので、
わたしもがんばります。
日本をたすけてください。
いつもおうえんしています。
じえいたいさんありがとう。

                   うみより




現場に「思い出の宝物」がありました。


祭壇正面。結果論ですが、裏山に逃げていれば、多くの児童と教職員は助かったことでしょう。


親御さんのお子さんへの愛情を痛いほど感じます。


(左)お母さんから巴那ちゃんへの手紙。(右)たくさんのぬいぐるみが・・・


5月8日、校門前に置いてあった封筒に書かれていた作者不詳の詩読売新聞6/11)。
ここへ来れば聞こえてくる 
君たちの歌声 遊ぶ声
ここへ来れば いつでも見える 
君たちの走る姿

バイバイを言えずに逝ってしまった
君たちを 
また明日遊ぼうねと言えなかった
君たちを 

僕は 僕たちは 私たちは
今も探している

すべてが変わってしまった
あの金曜日に
時間を巻き戻して
君たちを迎えに行きたい

そうすればずっと いつまでもずっと
一緒に居られたかな

沈まない船に乗って
今から迎えに行くね 
壊れないお家を建てるから
一緒に住もうね

もう怖くない もう一人にしない 
だから戻っておいでよ




ちょうど現場にいた作業員の方が、悲惨な現状の一部を語ってくださいました。

第1波は避難しようとした橋の方から来たそうです。その波が、下流からきた第2波とちょうど学校の所で合わさって巨大な波になりました。
さらに、地形が湾曲しているために、学校周辺で渦ができて多くの子どもたちが渦に巻き込まれたそうです。

自分の子どもを何とか捜したいお母さんが重機の免許を取り機械をレンタルして、自衛隊員とともに毎日子どもの遺体を探していました。
そのお母さんが、ある日「ここにいる」と言って掘ったら、実際に子どもの遺体が見つかったそうです。
(新聞報道では確認できていません)


作業員の方(写真右端)がお線香をくださったので、全員でお焼香をしました。




震災前の大川小学校と周辺。釜谷地区には139世帯が住んでいました。ここには楽しく幸せな暮らしがありました(写真:インターネットより、出典不明)。



被災前(左)と被災後(右)=写真Google。



新聞報道によると、どこに避難するかを校庭で30分ほど話し合っていた様です。
学校の判断は裏山(左)ではなく、校庭より7〜8メートル高い新北上大橋のたもと(右)でした。距離は約200m。


山沿いの裏道を歩いて橋へ(下2点=インターネットより、出典不明)。


橋に行く途中で、進行方向の橋の方から津波の第1波が押し寄せてきました。
第2波は川の方から来ました。
第1波と第2波が学校周辺で重なったため勢いを増し、渦を巻いたそうです(下2点=インターネットより、出典不明)。


橋のたもとにあるガードレールがぐしゃぐしゃに破壊されています。信号も曲がっていてこの高さまで津波が来たことがわかります。



津波の凄さは市の職員が撮ったビデオでもわかります。
「石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波」(YouTube)



一体何が起きたのでしょうか。
新聞報道をまとめると次のようになります。

3月11日午後2時46分の地震発生時は、児童は下校中か、「帰りの会」の途中だった。
校舎内の児童は教員の指示で校庭に集合し、学年ごとに整列した。
下校中の児童もほとんどが学校に戻った。
午後2時52分、防災無線のサイレンが鳴り、大津波警報が発令された。

午後3時頃、点呼を終えると、教頭と数人の教員が桜の木の下で、「山へ逃げるか」「この揺れでは木が倒れるので駄目だ」などと話し合っていた。
学校の津波の際の避難マニュアルは避難場所について「高台」としていただけで、具体的な場所を記していなかった
避難先をめぐって教員たちが議論している間にも、防災無線は「海岸沿いは危険ですので高台に避難してください」と呼び掛けていた。
余震が続き、恐怖のため泣きだす子や「山さ逃げよう」という男子児童もいた。

教職員は一方で、児童を迎えに来た保護者や避難してきた住民の対応にも追われた。
児童を保護者に引き渡すため名簿をチェックしたり、避難してきた住民が体育館などに入ろうとするのを制止したりする必要があったという。
市教委は説明会で「迎えにきた保護者が(自分の子の)友達を連れて帰ろうとしても認めなかった先生もいた。『今帰ると危ないのでここにいた方がいいですよ』と話す先生もいた」と報告したという。

その後、市の広報車から「津波が松林を越えてきた。高台に避難してください」と呼びかける声が聞こえた。
教員と集まった地域住民の間で「山へ逃げた方がいい」「山は崩れないのか」などのやり取りがあった。
結局、約200メートル先の北上川堤防付近にあり、堤防とほぼ同じ高さ6~7メートルの高台、新北上大橋のたもとに避難することになった。

避難を始めたのは地震から約40分後の午後3時25分頃。
約10分後の午後3時37分頃、6年生を先頭に、学校の裏手から北上川沿いの県道に出ようとしたところで左前方から津波が襲ってきて、高台ものまれた。

前方から津波が押し寄せてくるのを見て、児童と教員は裏山に向かって逃げ出した。
しかし、あっと言う間に津波にのみ込まれて、助かったのは、3年生の男児1名、5年生の男児2名と男性教員1名の計4名だけ(5名との説もあります)。

児童108人のうち69人が死亡、1人の遺体がDNA鑑定中、4人の行方が分かっていいない(8/21現在)。
当時学校にいた教職員11人のうち10人が死亡・行方不明で、校庭などに避難していた住民も多くが犠牲になった。




なぜ河口から5キロも離れているのに、こんなにひどい被害が生じたのでしょうか。

理由の第一は、地盤沈下です。
元々の海抜は1m程度でしたが、地震によって地盤が約1m沈下した結果、海と同じ高さになり、津波が浸入しやすくなっていました。

次の理由は、橋の方向から来た第1波と、海から来た第2波が重なり合い破壊力が増してしまったことです。

さらには、山がせり出していて幅が狭くなり、結果的に津波が狭められエネルギーが集中し、津波の高さが増し流速を増しました。
学校周辺で渦を巻いていたという証言もあります。

写真のA地点が大川小学校(Google)。





JNN報道特集を見ると何があったかよくわかります。

報道特集「証言!大川小学校の悲劇その1」(YouTube)

報道特集「証言!大川小学校の悲劇その2」(YouTube)


報道特集「その1」の後半に、亡くなった5年生の狩野達也君のご両親が出てきます。

地震から4日後にお父さんが教室に手がかりを探しに行くと、防犯ブザーの音が鳴り始めました。
音を頼りに探すと達也君のランドセルを発見。
ランドセルを抱えて自宅に帰った途端、鳴り止んだそうです。

達也君とお父さんの強い絆が奇跡を生んだのでしょうか。



私も前回の「思い出の宝物を持ち主に返そうプロジェクト」で、不思議な体験をしました(7/21ブログ)。

7月20日のことです。
たまたま私が担当した段ボールに写真好きの方がいました。
家族や旅行の写真など膨大な枚数です。

その中に、選挙事務所看板の前で演説している写真を見つけました。
選挙ポスターが写っているものもあります。

調布に帰ってから写真にあった名前をインターネットで調べてみると、その方は石巻市議会議員だった高橋健治さんで、大震災前日の3月10日に病気で亡くなっていたことがでわかりました。

そこで、21日に石巻市議会事務局の日野事務局長さんに電話をして説明しました。


その後、どうなったのかなと、気になっていました。

今日、アースデイ東京タワーの上川さんに聞いてみたら、遺族の方が数日後に取りに来られたそうです。

「思い出の宝物」が遺族に渡ってほっとしたと同時に、高橋さんが私に託したのかなとも思っていますicon01



 
関連情報を検索していると驚くことが。

「私たちの作品コレクション」というページが現われました。



前列の真ん中で絵を持って立っているのは、前述の狩野達也君が2年生の時だと思われます。

調べてみると、原子力だよりみやぎ104号(平成20年1月号)の1ページであることがわかりました。

さらにもうひとつ驚くことが。

達也くんの左隣で立っている女の子の名前は、鈴木巴那ちゃん。

小学校の祭壇にメッセージがあった巴那ちゃんが1年生の時だと思われます。

達也くんも巴那ちゃんも笑顔が輝いています。


達也くんの絵は「たつやワールド」


巴那ちゃんの絵は「花いっぱいになあれ」



達也くんや巴那ちゃんのような素敵な笑顔の子どもたちが大川小学校にいたことを、私たちは決して忘れてはいけないんだと思います。



<参考>

「児童74人死亡・不明の大川小 教員の意見割れ、40分経過」(河北新報6/6)

「避難より議論だった40分…犠牲者多数の大川小」(読売新聞6/13)


「大川小学校」(wikipedia)

「被災大川小女児が陸自隊員に手紙『わたしもがんばる』と感謝」(福井新聞4/30)

「いなくなって、明日で100日たつんだね」(産経新聞6/17)

「大川小であの日何が…津波から生還 教員『上に行け。上へ!』(産経新聞4/14)

河北新報「大川小学校関連記事」
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【東日本大震災パノラマ Vol.66】「『死にものぐるいで上に行け』大川小学校の裏山」(SankeiPhoto)

【東日本大震災パノラマ Vol.91】 「裏山から見た大川小」(SankeiPhoto)


「大川小の被害状況」(SankeiNews=YouTube)

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    Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:01 │東日本大震災・味スタ避難所