2010年07月18日
父・義春七回忌

9時30分 6年前に80歳で亡くなった父、大須賀義春のお墓参りで霊園に行きました。
平成16年は、6月26日に義父の柳川覺治が糖尿病による急性心不全で亡くなり、翌月の7月19日には父が肺がんで亡くなり、ひと月の間に二人の父親を亡くす慌ただしい月でした。
この日が3連休の中日なので、早めにと7時30分頃調布を出ましたが、予想以上に大渋滞。普段なら30分ほどで着くところを2時間かかってようやく到着。
お墓をきれいにして、線香をあげた後、父が大好きだった缶コーヒーをお墓の回りの芝生にかけました。
11時 七回忌法要を西光寺で行ったあと、「ゲゲゲの女房」で人気の深大寺に移動して、水神苑にて食事会。
水神苑の庭で記念撮影

父、義春は起業家としての人生を過ごしました。
若くしてコンデンサー部品製造の会社を立ち上げ、景気のいい時には、長野県と青森県に工場を持ち,数百人の従業員がいたようです。
しかし、コンデンサーがICチップに変わる頃から、業績は下降線をたどる様になりました。
その後、第一線を退くと、引退するどころか、常に新しい事業に挑戦し始めます。
無臭ニンニクの健康食品、自転車の立体駐輪場、庭でのゴルフ練習セットなどを次から次に手がけては、うまく軌道に乗ることができないまま失敗していました。
振り帰って考えてみると、目の付けどころとアイデア自体は確かにいいものの、商品として販売するところがうまくいかなかったようです。
ガンになり、病院のベッドに寝ていても何か事業を手がけてみたい意欲を見せていました。失敗に懲りず常に新たなことにチャレンジしていた父の起業家精神には心から敬服します。
正義感が人一倍強い人でもありました。
全国規模の道徳団体を相手に、「本人に無断で入会しているやり方がおかしい」と、一人で抗議をしに行ったこともありました。
ある老人クラブの親睦旅行の会計報告が不明朗だと指摘して、「明確にすべき」と申し入れたものの、逆に「多少不明瞭なことがあっても穏健にやりたい」とする人たちの多数派工作でクラブを追い出されてしまったこともありました。

父が祖父のことを自慢げに話していた逸話があります。
祖父がまだ若く、食糧難の時代のことです。村(長野県小海町の一つの村)の1軒の農家に野菜泥棒が入りました。村中の多くの人が、ある青年が犯人だと指摘しました。その時「証拠がないのに決めつけるのはおかしい」と祖父だけが反対したそうです。
その結果、祖父はほとんど村八分になってしまったのです。しばらくその状態が続きましたが、ある時、真犯人が見つかりました。真犯人は、その青年を一番先に犯人だと指摘した村の青年団のリーダーだったそうです。
勇気がなければとれない行動です。
祖父は私が3歳の時に亡くなったので、記憶はほとんどありませんが、この話だけで祖父を尊敬しています。
ある意味では、祖父も父も孤高の人だった言えるのかも知れません。
DNAが繋がっていることを考えると、私にも、正しいけれども孤高の道を歩む時がいつか来るのかも

Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:01│Comments(0)
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