2013年07月21日
7/21① 宮古市「田老の防潮堤」
今日から23日まで岩手県と宮城県に出かけます。
メインは、『石巻グランドホテル』を運営する株式会社ソーワダイレクトの創業40周年記念パーティー(7月22日18時)に出席するためです。
(株)ソーワダイレクトは、私が所属している「調布から!復興支援プロジェクト」がお世話になっている後藤宗徳さん(2011.5.26ブログ、2011.7.19ブログ、2011.10.30ブログ、2013.2.10ブログ)が社長を務めています。
この機会を利用して、今まで見ることのできなかった被災地の状況、復興の現状の一部を自分の目で見てきたいと思います。
今のところは、岩手県宮古市「田老の防潮堤」、「釜石の奇跡」の釜石東中学校、陸前高田市「奇跡の一本松」、南三陸町「防災庁舎」、宮城県石巻市、名取市閖上地区などを中心に見てくる予定です。
もちろん、参議院選挙は昨日「期日前投票」を済ませてあります。
丸川珠代候補と自民党の勝利を信じて出かけます。
6時 これから出発します。
今まで、東日本大震災の被災地には「調布から!」の誰かと一緒だったのですが、今回はたった1人。
ちょっと心細いかも…
まずは宮古市田老町に向かいます。

羽生パーキングエリアでトイレ休憩。
車の調子は昨日見てもらっているだけに絶好調です(2013.7.20ブログ)。
でも、私は車の運転が大の苦手で嫌いなので、運転してるだけでとっても疲れます
宮古市まであと何時間かかるんでしょう。トホホ

前沢サービスエリアで食事。
2番人気の牛タン定食を注文(1,100円)。
店員さんに聞いてみると、安いだけあって「前沢牛ではない」とのこと。
この牛タンの量でこのお米の量はちょっと無理があるかも。

盛岡南インターチェンジで東北自動車道を降りて、国道106号線へ。所々で工事中。

宮古市に入りました。
道の駅「区界高原」で休憩。
区界とは盛岡市と宮古市との境のようです。

いわて地産地消自動販売機がありました。


田老町(下写真右上の地域)まで、まだかなりの距離があります。

宮古市内の商店街。

沿岸の道路ではあちらこちらに津波に関する表示看板が。




15時20分 田老町に着きました。
田老町(たろうちょう)は、2005年(平成17年)に宮古市と合併。
現在、宮古市田老町。
宮古市田老総合事務所(旧田老町役場)。

総合事務所前にある「津波防災の町宣言」石碑


津波防災の町宣言
田老町は、明治29年、昭和8年など幾多の大津波により壊滅的な被害を受け、多くの尊い生命と財産を失ってきました。しかし、ここに住む先人の不屈の精神と大きな郷土愛でこれを乗り越え、今日の礎となる奇跡に近い復興を成し遂げました。
生まれ変わった田老は、昭和19年、津波復興記念として村から町へと移行、現在まで津波避難訓練を続け、また、世界に類をみない津波防潮堤を築き、さらには最新の防災情報施設を整備するに至りました。
私たちは、津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます。
御霊の鎮魂を祈り、災禍を繰り返さないと誓い、必ずや襲うであろう津波に町民一丸となって挑戦する勇気の発信地となるためにも、昭和三陸大津波から70年の今日、ここに「津波防災の町」を宣言します。
平成15年3月3日
田老町
「万里の長城」と呼ばれた防潮堤。高さ10.45mで、総延長2,433m。


消防団員が命をかけた防潮堤門扉。



津波の力で折れ曲がってしまった防潮堤上部の街路灯。

決壊した第2防潮堤。遠方に見えるのが「たろう観光ホテル」。

被災した「たろう観光ホテル」(ホームページは震災以前のまま)。

田老は「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多く、江戸時代初期の1611年に起きた慶長三陸地震津波で村がほとんど全滅したとの記録がある。
1896年(明治29年)の明治三陸津波では、田老村の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡したとある。
1933年(昭和8年)の昭和三陸津波による田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)、一家全滅66戸と、またしても三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であった。
1958年(昭和33年)堤高10m超の防潮堤が完成。
その後も増設を続け、1966年(昭和41年)に最終的な完成を見た。(Wikipedia「田老町」より)
田老町の防潮堤とは 高さ10mの三つの防潮堤を中央部で接続し、X型としている。防潮堤①は昭和三陸津波を受けて1934~57年度に建設し、長さは1,350m。②はチリ地震津波を受けて62~65年度に建設し、長さ582m。今回の津波ではこの部分が倒壊した。③は73~78年度に建設し、長さ501m。(岩手日報「住民主役の知恵忘れ 巨大防潮堤の矛盾」より)

岩手・田老地区【東日本大震災パノラマ Vol.138】(MSN産経フォト)
「万里の長城」かさ上げへ【東日本大震災パノラマ Vol.219】(MSN産経フォト)
港湾部の復興が始まっていました。沈下した港湾のかさ上げや防波堤の建設をしているようです。



田老地区の現状を、防潮堤に上って災禍の記録や後世への教訓を伝える「学ぶ防災」が時々マスコミで取り上げられています。
語り部の話を聞けるかな思ってましたが、防潮堤周辺には誰もいませんでした。
帰ってから調べると「学ぶ防災」は宮古観光協会が中心となり行っていて、予約が必要なようです。

一角に「田老ふるさと物産センター」の仮設店舗がありました。


店主の川戸弘治さんに話を聞くことができました。

川戸さんは物産店と民宿を営んでいました。
しかし、津波で両方とも全壊。
民宿があった場所に何とか仮設店舗を再開したそうです。
復興計画による「かさ上げ対象地区」となっているようで、「いつまで営業できるかわからない。グループ補助金など現在の補助制度は被災地の現状を踏まえていない」と語っていました。
「田老ふるさと物産センター」の海側の向かいには、震災前、宮古市消防団第28分団の詰所(屯所)がありました。

分団は15分ルール(震災時に消防団活動、水門・陸閘(りくこう)の閉鎖及び避難誘導に従事することができる活動可能時間を発災から15分としたルール)を徹底していたそうです。
水門5カ所を閉鎖した28分団の25人に犠牲者はありませんでした。
別の地域では、いったん閉めた水門を住民の求めで開け、団員が逃げ遅れた事例もあったそうです。
河北新報社によると、岩手、宮城、福島の3県で死亡・行方不明となった254人の消防団員のうち、61人が水門や車両が通り抜ける陸閘の閉鎖に関わって犠牲になっています。(「焦点/3県消防団員/61人水門閉鎖中に犠牲」より)
同じ消防団員として、命を賭した献身的な行いに敬意を表するとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
防潮堤は「高さ10m」と言われてきました。
しかし、車の高さとの違いを見てわかるようにそれほど高く感じません。

実際に門扉のところに「高さ4.5m」と表示してあります。通過できる高さを表しているとしたら、その上部を合わせて、 5.5mでしょうか。


「田老ふるさと物産センター」の川戸さんも「防潮堤の下を観光バスが通ることになり、改めて計ったところ、10mなかった。低くてみんな驚いた」と話していました。
震災後、日本地理学会が簡易レーザー機器により実測したところ、堤体の高さは基部から天端(上面)まで5.5m しかなく、基部の地面から海面まで3.5m で、合計9mでした。
10.45m は、おそらく低潮位に近い工事基準面(北上川基準面K.P )からの高さ。平均的な海面からは10m の高さがありませんでした。(「田老の防潮堤と津波の波高」より)
防潮堤の高さ10メートルとは、地面からではなく海面からの高さだったのです。
もちろん高さ5.5mでも、防潮堤は一定の効果があったのだと思います。
ただ、「高さ10m」が地域住民の心に「大きすぎる安堵感」をもたらしたことはなかったのでしょうか。
復興計画に基づく高台の造成が始まっていました。

被災地は草で覆われていました。

スマイルいわての看板が。


安倍総理、ふるさとを取り戻してください
被災者の立場に立った復興をお願いします

旧田老町ホームページ(国立国会図書館保存 2005年5月31日時点)
16時35分 「釜石の奇跡」の釜石東中学校に向かいます。
メインは、『石巻グランドホテル』を運営する株式会社ソーワダイレクトの創業40周年記念パーティー(7月22日18時)に出席するためです。
(株)ソーワダイレクトは、私が所属している「調布から!復興支援プロジェクト」がお世話になっている後藤宗徳さん(2011.5.26ブログ、2011.7.19ブログ、2011.10.30ブログ、2013.2.10ブログ)が社長を務めています。
この機会を利用して、今まで見ることのできなかった被災地の状況、復興の現状の一部を自分の目で見てきたいと思います。
今のところは、岩手県宮古市「田老の防潮堤」、「釜石の奇跡」の釜石東中学校、陸前高田市「奇跡の一本松」、南三陸町「防災庁舎」、宮城県石巻市、名取市閖上地区などを中心に見てくる予定です。
もちろん、参議院選挙は昨日「期日前投票」を済ませてあります。
丸川珠代候補と自民党の勝利を信じて出かけます。
6時 これから出発します。
今まで、東日本大震災の被災地には「調布から!」の誰かと一緒だったのですが、今回はたった1人。
ちょっと心細いかも…
まずは宮古市田老町に向かいます。
羽生パーキングエリアでトイレ休憩。
車の調子は昨日見てもらっているだけに絶好調です(2013.7.20ブログ)。
でも、私は車の運転が大の苦手で嫌いなので、運転してるだけでとっても疲れます

宮古市まであと何時間かかるんでしょう。トホホ

前沢サービスエリアで食事。
2番人気の牛タン定食を注文(1,100円)。
店員さんに聞いてみると、安いだけあって「前沢牛ではない」とのこと。
この牛タンの量でこのお米の量はちょっと無理があるかも。
盛岡南インターチェンジで東北自動車道を降りて、国道106号線へ。所々で工事中。
宮古市に入りました。
道の駅「区界高原」で休憩。
区界とは盛岡市と宮古市との境のようです。
いわて地産地消自動販売機がありました。
田老町(下写真右上の地域)まで、まだかなりの距離があります。
宮古市内の商店街。
沿岸の道路ではあちらこちらに津波に関する表示看板が。
15時20分 田老町に着きました。
田老町(たろうちょう)は、2005年(平成17年)に宮古市と合併。
現在、宮古市田老町。
宮古市田老総合事務所(旧田老町役場)。
総合事務所前にある「津波防災の町宣言」石碑
津波防災の町宣言
田老町は、明治29年、昭和8年など幾多の大津波により壊滅的な被害を受け、多くの尊い生命と財産を失ってきました。しかし、ここに住む先人の不屈の精神と大きな郷土愛でこれを乗り越え、今日の礎となる奇跡に近い復興を成し遂げました。
生まれ変わった田老は、昭和19年、津波復興記念として村から町へと移行、現在まで津波避難訓練を続け、また、世界に類をみない津波防潮堤を築き、さらには最新の防災情報施設を整備するに至りました。
私たちは、津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます。
御霊の鎮魂を祈り、災禍を繰り返さないと誓い、必ずや襲うであろう津波に町民一丸となって挑戦する勇気の発信地となるためにも、昭和三陸大津波から70年の今日、ここに「津波防災の町」を宣言します。
平成15年3月3日
田老町
「万里の長城」と呼ばれた防潮堤。高さ10.45mで、総延長2,433m。
消防団員が命をかけた防潮堤門扉。
津波の力で折れ曲がってしまった防潮堤上部の街路灯。
決壊した第2防潮堤。遠方に見えるのが「たろう観光ホテル」。
被災した「たろう観光ホテル」(ホームページは震災以前のまま)。
田老は「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多く、江戸時代初期の1611年に起きた慶長三陸地震津波で村がほとんど全滅したとの記録がある。
1896年(明治29年)の明治三陸津波では、田老村の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡したとある。
1933年(昭和8年)の昭和三陸津波による田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)、一家全滅66戸と、またしても三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であった。
1958年(昭和33年)堤高10m超の防潮堤が完成。
その後も増設を続け、1966年(昭和41年)に最終的な完成を見た。(Wikipedia「田老町」より)
田老町の防潮堤とは 高さ10mの三つの防潮堤を中央部で接続し、X型としている。防潮堤①は昭和三陸津波を受けて1934~57年度に建設し、長さは1,350m。②はチリ地震津波を受けて62~65年度に建設し、長さ582m。今回の津波ではこの部分が倒壊した。③は73~78年度に建設し、長さ501m。(岩手日報「住民主役の知恵忘れ 巨大防潮堤の矛盾」より)

岩手・田老地区【東日本大震災パノラマ Vol.138】(MSN産経フォト)
「万里の長城」かさ上げへ【東日本大震災パノラマ Vol.219】(MSN産経フォト)
港湾部の復興が始まっていました。沈下した港湾のかさ上げや防波堤の建設をしているようです。
田老地区の現状を、防潮堤に上って災禍の記録や後世への教訓を伝える「学ぶ防災」が時々マスコミで取り上げられています。
語り部の話を聞けるかな思ってましたが、防潮堤周辺には誰もいませんでした。
帰ってから調べると「学ぶ防災」は宮古観光協会が中心となり行っていて、予約が必要なようです。

一角に「田老ふるさと物産センター」の仮設店舗がありました。
店主の川戸弘治さんに話を聞くことができました。
川戸さんは物産店と民宿を営んでいました。
しかし、津波で両方とも全壊。
民宿があった場所に何とか仮設店舗を再開したそうです。
復興計画による「かさ上げ対象地区」となっているようで、「いつまで営業できるかわからない。グループ補助金など現在の補助制度は被災地の現状を踏まえていない」と語っていました。
「田老ふるさと物産センター」の海側の向かいには、震災前、宮古市消防団第28分団の詰所(屯所)がありました。
分団は15分ルール(震災時に消防団活動、水門・陸閘(りくこう)の閉鎖及び避難誘導に従事することができる活動可能時間を発災から15分としたルール)を徹底していたそうです。
水門5カ所を閉鎖した28分団の25人に犠牲者はありませんでした。
別の地域では、いったん閉めた水門を住民の求めで開け、団員が逃げ遅れた事例もあったそうです。
河北新報社によると、岩手、宮城、福島の3県で死亡・行方不明となった254人の消防団員のうち、61人が水門や車両が通り抜ける陸閘の閉鎖に関わって犠牲になっています。(「焦点/3県消防団員/61人水門閉鎖中に犠牲」より)
同じ消防団員として、命を賭した献身的な行いに敬意を表するとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
防潮堤は「高さ10m」と言われてきました。
しかし、車の高さとの違いを見てわかるようにそれほど高く感じません。
実際に門扉のところに「高さ4.5m」と表示してあります。通過できる高さを表しているとしたら、その上部を合わせて、 5.5mでしょうか。
「田老ふるさと物産センター」の川戸さんも「防潮堤の下を観光バスが通ることになり、改めて計ったところ、10mなかった。低くてみんな驚いた」と話していました。
震災後、日本地理学会が簡易レーザー機器により実測したところ、堤体の高さは基部から天端(上面)まで5.5m しかなく、基部の地面から海面まで3.5m で、合計9mでした。
10.45m は、おそらく低潮位に近い工事基準面(北上川基準面K.P )からの高さ。平均的な海面からは10m の高さがありませんでした。(「田老の防潮堤と津波の波高」より)
防潮堤の高さ10メートルとは、地面からではなく海面からの高さだったのです。
もちろん高さ5.5mでも、防潮堤は一定の効果があったのだと思います。
ただ、「高さ10m」が地域住民の心に「大きすぎる安堵感」をもたらしたことはなかったのでしょうか。
復興計画に基づく高台の造成が始まっていました。
被災地は草で覆われていました。
スマイルいわての看板が。
安倍総理、ふるさとを取り戻してください


旧田老町ホームページ(国立国会図書館保存 2005年5月31日時点)
16時35分 「釜石の奇跡」の釜石東中学校に向かいます。
Posted by 大須賀 浩裕(おおすが ひろすけ) at 23:01│Comments(0)
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